阿弥陀様は、どのように私を救おうとされたのか?
光明と名号をもつて十方衆生を摂化したまふ
合掌 お疲れ様です。
新しいノートPC を購入したので、さっそくとブログを更新しようとしております。
教行信証の行巻もズバリズバリと結論が述べられているところです。
法然上人と親鸞聖人の教えが、違うのではないか?などと考える人がいて、次のお言葉がかなりややこしいのだが、これを一つ覚えておくと、なるほど違いがないなとわかることであります。
まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃 六五九)とのたまへり。
また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。また「真宗遇ひがたし」(散善義 五〇一)といへるをや、知るべしと。
私たちの往生を誓われた誓願だが、どうやって救おうとされたのか?
仏教は、因果の道理です。因と縁とが和合して、果が生じるわけで、私たちは如来から見れば、実は救いようもない奴なんですが、広大無辺な大慈悲がかかっており、すでに悲願が成就しているわけです。
つまりは名号が私に届くことにより、タネがまかれることになりますね。そのタネには、すでに往生の因が込められていますので、私の元で称名として形を表し育て上げるのです。それが光明を縁としてのおはたらきであります。これはわかりやすい。
初重の因縁と言われますが、これはお念仏がタネとして私の往生という証果が定まるという、三法【教・行・証】を表すもので、法然上人の教えですね。
そして後重の因縁とは、真実信心をタネとして光明・名号が縁となり、往生の証果が定まるという義でございました。これは親鸞聖人が、明らかにされた四法【教・行・信・証】でした。
どちらにしても、ご名号を私が正しく受け取ることで、私の往生が定まるとの義でございます。
お念仏を受け取ると、信心も念仏もともにタネと味わえます。
何しろわたくしのなすべきことは一つもないのです。
RCさんではないが、本願成就のお話を聞いて、ご安心たまわりますと、あぁ何にもこちらから必要なかったんだと味わえるのです。
今日もありがたや、うれしやと、称名に励むのであります。