どうなったのが救われたことなのか?
合掌
お疲れ様です。
宗祖親鸞様が、あきらかになされたことは数多く、現当ニ益が代表的だろう。
蓮如様が、自問自答章で、正定と滅度とは一益と心得べきか、ニ益と心得べきかと問うて、ニ益だとおっしゃる。
阿弥陀仏の本願の11願、必至滅度の願では、浄土に往生してから正定聚に往って、仏となる修行をすると誓われているのに対しこの世で、仏となる身に定まるのだと断定されたのは、宗祖だけです。
マジか〜、仏の一歩前ではないか?往生が定まるというのは、そういうことなのだ。信心定まるというは、往生また定まるなり。
無理だ、毎日毎日、三途の業を作り続けているのに成れるはずがない。という疑いがなくなるのが救われたということです。
とはいえ、悪に誇ることではなくして、懺悔の心が、起こってくるのです。
S会の時は、この心で苦しむ。こんなことでは、救われないのではないか?
いわゆる信罪福心、常識的な心なので、一生助かることはありません。
S会の友達から電話がかかり、また、信心決定したのか聞いてきた。
したよと答えても懐疑的で、私はS会がなぜ浄土真宗ではないか、説明した。参考に、飛雲さんの飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~サイトと、故嶋田先生のサイトはじめに・目次 : あなたの白道を紹介したが、
ちゃんと読んでくれることを願ってならない。