お念仏には、私を仏にする力がある?
合掌
お疲れ様です。新聞の休刊日とはいえ、店長として月の半分に近づき、皆のシフトを考えなければいけないので、午後から、職場に行く。
やるべきことはたくさんあるのだが、意欲があまり出ない。
このブログも、教行信証の最も大事なところに入ってきた。
親鸞聖人が、お念仏を讃嘆して、さぁそれは一体どんな力用があるのか?明らかにするところです。
決釈と銘打っている。
念仏成仏
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
私に回施された南無阿弥陀仏の名号が、私の口から出るのだが、もはや自力の行ではないとおっしゃっている。
だから、どれだけ称えようと、一声だろうがもう関係なく、どれだけ称え心を整えようが、一生懸命に称えようが、つぶやくようなお念仏であろうとも、皆等しく成仏を期するべきなのです。念仏往生とここでは仰っていないところにも注意が必要です。
当然ながら、経釈に忠実な宗祖ならではの言い回しです。
念仏成仏はこれ真宗なり。(法照)
これはすごいことです。往生即成仏となぜ宗祖は領解されているのであろうか?
日本の仏教の歴史でいえば、凡夫が仏の悟りを開くことを教えているのは、二双四重の教判でももちろんあることはありますが、かなり難しいというか、やはり凡夫には不可能なことなんですよ。
まさに横超の直道とよべるものです。
人生は、お念仏に出遇うためのものだった!
と結論してもよろしいのではないでしょうか?
仰いで、いただくべき言葉であります。