いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

信心とはなにか?④

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

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いきなり、大信の総決を貼り付けたわけだが、ご信心は、あくまでも如来から私に回向されるものであって、自分が起こせるものでないことを語っておられるのだ。

そして、先日の安心問答 福井座談会 で、宮田先生が明らかにされたことは、単なる文字の解説でない。本願を信ずるってことは、南無阿弥陀仏のいわれを聞くことである。仏教を聞くということは、本当の私に遇うことだと言われます。

無始よりこのかた、流転してきたと、とうの昔に知り抜いていた如来が、何とか仏教聞ける身にしてくださったのだ。

そして、お念仏称える身にしてくださったことは、全く私の力ではない、如来の方便と味わい、歓喜の心が沸き起こってくる。

本願寺では、慶讃法要が、大々的に行われ、時期を同じくして、京都国立博物館で「親鸞展」親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝 - 京都国立博物館 (kyohaku.go.jp)が開催されている。

私は4月12日に団体参拝予約をしているので、そこまで生きていれば行けるが、なんと夜中仕事してから、5時40分に集合になっている。大丈夫か?

一抹の不安のまま日々を過ごしている。それで16日ぶりの完全休業の日に何をやっているかと言えば、車を購入した。もちろんローンで。しかも完全仕事仕様の車、三菱のミニキャブバン もちろん四駆です。これで雪道もばっちし!

それから、仏法をYouTubeで探す。平田聞思氏のYouTubeチャンネルでアップされていた、加茂仰順氏の音声だけの声を聞く。

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いろいろと思い違いや、心得違いを直していただける有難いお話です。

そしてさらに、東本願寺のチャンネルも第五回の講義を丸々聴聞できた。

いい日だな~!

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三木 彰円氏の解説は非常に聞きやすくて、ドはまりしてしまった。

特に自筆の坂東本の教行信証が、現代にあり、親鸞聖人の聞思の姿勢を知ることができて本当に驚きとともに感動した。私もお念仏の教えをできる限り学び、人々に伝えていきたいですね。そのためにはコミュニティというか、人との絆が大事ですね。一人でやってても限度がありますね。私も少しは先生方のお手伝いできてるかなぁ。邪魔してなければいいが…

 

今日もおかげさまです。

南無阿弥陀仏

信心とはなにか?③

 つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。
 この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり

 

お疲れ様です。2月があっという間に過ぎた。

仕事が忙しくて、どうしようもなかった。またまた私の異動が決まった。

おそらく今日内示が出てると思うので公開するが、たった1年で、交代だ。

だがおそらくだが、次店では、店長職になる。とうとうメインの店での店長だ。

全販売店でのモデル店となるべき店の店長だ、いろいろとアイデアを出して、実現していきたいと思います。気負うこともないが、精一杯職務を全うしていきたい。

 

さて、信巻の大信釈です。信心と行(念仏)は別のものではない。ですから信心の内容を述べておられるのだが、大行の内容と被ると思います。

大行を、述べておられるところと比較したい。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

しかしながら、あきらかに、大信の讃嘆がすごいですね。もう言葉のチョイスが、最大限でしょうね。ここまで讃嘆された上に、大部な引用の数々、私はこの信心を明らかにするために関東から京都に行かれた理由の一つだと思っています。

 

でもよく読んでみると、衆生側、つまり私に与えられるのは、信心であって、諸仏が称名しているとのことですね。悩んでしまうなぁ、阿弥陀様は、私にお念仏を回向してくださったのか?それともご信心を回向してくださったのか?

 

実感としては、お念仏で助かったと思っていたが、ご信心を回向されたことによって、お念仏させていただいているのか?信行次第ともいわれるが、いまだに解決していない。ご信心を回向されたことによって、自力が取られた、疑心がなくなったと理解すると、称える前にすでに自力心がなくなっていたことを思うと、信一念義の安心論題の解説通りではないかと思います。もちろん自覚はありますので、信の一念はございますが、確実な日時はわかりません。あれ?今までの胸中のわだかまりがなくなったのを自覚したのは、令和元年の11月11日の早朝でありました。その日を「本願帰命の日」

と私は定めております。

 

南無阿弥陀仏

信心とはなにか?②

 

しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。
 ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。

 しばらく疑問を至してつひに明証を出す。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり。

皆様、お疲れ様です。

ますますブログ更新がおろそかになり、せっかくの愛読者にも愛想をつかれるところでありました。

 

さて、2023年となり、このブログを始めた時から全く変わらず、新型コロナの感染が、さらに拡大して、収まる気配も見せない中で、ここにきて感染症の部類を第5類に格下げするとの政府判断がなされる、中国ではすでに9億人が感染し、かかっていない人のほうが、肩身の狭い思いをしているとのことです。

 

信巻 本 に入る前の別序ですが、教行証の三法に、わざわざ信を入れたことは、明らかに当時の道俗、いや僧侶に向けての一大鉄槌を下したい想いが、表わされていると思うが、当然後世の私たち、衆生に向けて、正しくご法義を受け取ってくれよということが、言われてあるのではないか。

 

言葉は難しいので、解釈は控えますが、結局のところ、ご本願を受け取るのに一番邪魔なものは、定散の自心=自力心であって、自分の心にお浄土も、阿弥陀仏もあるというのは、論外だとおっしゃっている。

 

とにかく素直に受け取れないのだ。「お前を助ける」との仰せをそのまま受け取ればいいんだが、やれ「どうやって?」「どうなったら?」などと、拒んでしまう。

 

先回のブログで述べたが、大腸検査の結果、1センチ大のポリープが、出口付近に見つかり、大腸全体では5個見つかった。そこで医者から、1センチ以上のは切除しましょうと勧められ、今度の1月19日に手術が決まった。手術で採った組織は、病理検査に回され、悪性腫瘍ならば、つまり癌なら、即治療が始まる。まだ採ってみないとわからない、そんな状況でも、お浄土に生まれることに疑いがないというのは、頼もしいことではないか!

 

念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天
神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずること
あたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと[云々]。

 

二河白道の譬でお示しのように、煩悩に振り回されるのは、信心をいただいても全く変わらないのだが、ここでは信心を得たら、無碍の一道だとおっしゃっている。矛盾しているのではないかと思われるでしょうが、浄土への大道が開かれていることが、大功徳、大利益であって、転悪成善の利益を表しておられることは間違いないですね。

 

先達は、楽しんで苦しんでいけると表現なされたが、「いよいよ浄土が近づいてきたなぁ」と思えば、世間の苦しみにも果敢に向かっていけるではないか!

 

今1月14日で、明日、安心問答 福井座談会をオンラインで行う。

今回は、御文章で、信心決定をせよと何回も言われてあるが、果たしてどんなことなのか?


繰り返しになりますが、初事と、肝に銘じて、しっかり聞かせていただきたいと思います。

 

南無阿弥陀仏

信心とはなにか?①

それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

 

皆様お疲れ様です。長らくブログを更新できなかった。

顕浄土真実教行証文類 行巻を味わい、お念仏の心を少しでも理解できたらと思い、書き連ねた。駄文の数々を見て、げんなりしてしまった。

 

私の仕事としても、立場が変わり、店長からまた降格して、代理として日々を過ごしている。健康診断の結果、大腸に潜血があるというので、大腸検査を予約した。

 

さて、信巻へ入るわけだが、ここが真宗の肝要で、親鸞聖人が一番明らかにされたかったことと拝察する。

 

別序と言われる文章の最初のお言葉です。先達がいろいろと言われていて、己証の別開だと断言する曽我量深氏ですが、私はそうは思わない。ひたすら弥陀の本願を仰ぎ、当時の道俗の誤謬を正そうとされた、または法然聖人の教えを正確に明かされた巻であると私は仰いでいる。

 

信心同異の諍論でも、真実信心はみな如来から賜る信心です。ですから、そこを深く味わうと一味の世界が広がっていきます。ですから難しく考えることもなく、書かれたことを素直に受け取っていきます。

 

まず信心とは、物でもないが、獲得(ぎゃくとく)と書いてある。

浅はかな凡夫、人間はこれでまずつまずく。心のことだから、心の状態が、今までの自分と大変わりするんじゃないかと妄想するのです。

 

私の先生は、よく阿弥陀様からのプレゼントですとか言われることがあるので、なお混乱するのではなかろうか?いや申し訳ない、先生の悪口ではない、何か素晴らしいものだと思ってほしいというお気持ちからではないかと推察する。

 

あるいは、桜嵐坊さまは、お浄土への切符、チケットみたいな言い方をされるんですね。

 

あるいは、信心を無疑と言われる。不疑とは違うというのは、稲城和上がおっしゃっておられた。人間が疑わないことなど不可能だ。ましてや死んでから後のことなどわかるはずもないことなのだが、南無阿弥陀仏には、疑いを除く智慧が備わっていると、親鸞様は断言されていることは、以前も述べたところだ。

 

自覚として信心をいただくと、名号が私にはたらいているのか、不思議にも安堵感が広がっていく。信前は、ああでもないこうでもない、ああ言えばこう言うみたいな、そうは言うけどわからんなぁ~と文句ばかり言っていた。

 

ある日を境に、ありゃ何も変わらなくていいじゃないか?と阿弥陀様は、「お前をそのまま助ける!」という御心が届いた。何の前触れもない、一瞬のことだった。

 

先生とのやり取りを延々としていただけだが、先生の言われることはいつも一つ。

「そういう貴方(私の名前)を阿弥陀様はなんとおっしゃっていますか」

あるいは、「あなたを助けることに、何か条件をつけていますか?」

 

とやかくも、こんな悪い奴は救われるはずがないと、本願に漏れたものだと勝手に思っていた。だから文句が止まらなかったことは今もよく覚えている。

 

だから問答というのは非常に大事だ。阿弥陀様のお救いは、無条件なのですが、こちらから注文をつけてしまうのだ。

 

さて私が信心を得る話ではない、仏様、如来様が私に信心を与えて救おうというお話なのでした。

 

南無阿弥陀仏

 

毎日お念仏を称えていると④

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。
 ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈(論註・上 五一)を披きたるにのたまはく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓すべし。また所願軽からず。もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加す、このゆゑに仰いで告ぐ」とのたまへり。
 しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、

皆様、暑中お見舞い申し上げます。

学生は、夏休みに入り、新型コロナが、政府が行動制限のないまま、感染者が過去最高を更新して、私が違和感を覚えるのは、そのタイミングで、濃厚接触者の自宅待機日数が7日から5日に短縮されて、すこしでも医療人材不足の解消や、経済が回らなくなる恐れを回避しようとする政府の思惑を感じて、もう感染は自己責任ですよと、個人に丸投げしようとする意図が見え隠れしている。また我々も、この感染予防生活も当然のこととして慣れてしまっている、マスク生活、消毒生活が当たり前になってしまった。戦火の続くウクライナの首都キーウの人々が、東部の各地のミサイル攻撃を見ながら、もう慣れてしまったと言っていて、そんな環境に順応するとは人間は恐ろしいものだと感じる。

混とんとする世間の中、お念仏に生きる我々は、歓喜の日暮らしをさせていただいている。

 

いよいよ行巻が終了する。正信念仏偈に入る前の文だが、御開山が短く他力、真宗の教えを解説してくれているところをアンダーラインで示させていただいた。

そのあとの、曇鸞大師の論註の引用は、現代語訳が、Wikiarcに掲載されているので参照されたい。仏と菩薩の関係は、孝行息子と両親、また君子と家来のような関係で、動静おのれにあらずとは、自分勝手な言動はせず、かならず主君の意向にそって家来は行動するのだから、どうか援護、支援していただけないかと乞うのだ。

 

お念仏を称えさせていただいたものは、正定の菩薩であるとするならば、常に動静おのれにあらずと心がけたいものだ。

 

人生の物語は、自分が主人公だ!とみな思っているようだが、感謝の日暮らしをするようになると、如来のご催促がなければ、到底、真実の行信は得られない、主人公は如来であったと痛感する。

私も御開山のお言葉に帰して、このブログを書き続けていきたい。

南無阿弥陀仏

毎日お念仏を称えていると③

しかるに教について念仏諸善比挍対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。
この義かくのごとし。

しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。

またについて対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対、浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賤対、明闇対あり。この義かくのごとし。

しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。

敬つて一切往生人等にまうさく、弘誓一乗海は、無碍無辺最勝深妙不可説不可称不可思議の至徳を成就したまへり。なにをもつてのゆゑに。誓願不可思議なるがゆゑに。
悲願たとへば太虚空のごとし、もろもろの妙功徳広無辺なるがゆゑに。
なほ大車のごとし、あまねくよくもろもろの凡聖を運載するがゆゑに。
なほ妙蓮華のごとし、一切世間の法に染せられざるがゆゑに。
善見薬王のごとし、よく一切煩悩の病を破するがゆゑに。
なほ利剣のごとし、よく一切驕慢の鎧を断つがゆゑに。
勇将幢のごとし、よく一切のもろもろの魔軍を伏するがゆゑに。
なほ利鋸のごとし、よく一切無明の樹を截るがゆゑに。
なほ利斧のごとし、よく一切諸苦の枝を伐るがゆゑに。
善知識のごとし、一切生死の縛を解くがゆゑに。
なほ導師のごとし、よく凡夫出要の道を知らしむるがゆゑに。
なほ涌泉のごとし、智慧の水を出して窮尽することなきがゆゑに。
なほ蓮華のごとし、一切のもろもろの罪垢に染せられざるがゆゑに。
なほ疾風のごとし、よく一切諸障の霧を散ずるがゆゑに。
なほ好蜜のごとし、一切功徳の味はひを円満せるがゆゑに。
なほ正道のごとし、もろもろの群生をして智城に入らしむるがゆゑに。
なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに。
閻浮檀金のごとし、一切有為の善を映奪するがゆゑに。
なほ伏蔵のごとし、よく一切諸仏の法を摂するがゆゑに。
なほ大地のごとし、三世十方一切如来出生するがゆゑに。
日輪の光のごとし、一切凡愚の痴闇を破して信楽を出生するがゆゑに。
なほ君王のごとし、一切上乗人に勝出せるがゆゑに。
なほ厳父のごとし、一切もろもろの凡聖を訓導するがゆゑに。
なほ悲母のごとし、一切凡聖の報土真実の因を長生するがゆゑに。
なほ乳母のごとし、一切善悪の往生人を養育し守護したまふがゆゑに。
なほ大地のごとし、よく一切の往生を持つがゆゑに。
なほ大水のごとし、よく一切煩悩の垢を滌ぐがゆゑに。
なほ大火のごとし、よく一切諸見の薪を焼くがゆゑに。
なほ大風のごとし、あまねく世間に行ぜしめて碍ふるところなきがゆゑに。
よく三有繋縛の城を出して、よく二十五有の門を閉づ。
よく真実報土を得しめ、よく邪正の道路を弁ず。
よく愚痴海を竭かして、よく願海に流入せしむ。
一切智船に乗ぜしめて、もろもろの群生海に浮ぶ。
福智蔵(18願)を円満し、方便蔵(19・20願)を開顕せしむ。
まことに奉持すべし、ことに頂戴すべきなり。

皆様、お疲れ様です。一乗海の海に溺れておりましたが、何とか息をすることができたので、ブログを書いています。

非常に丹念に調べ上げた論文に出会えたおかげで、多少なりとも親鸞様のおっしゃることが理解できました。

 

親鸞(様)の一乗海釈」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/33/2/33_2_666/_pdf/-char/ja

PDF形式なので、ブラウザで見れるように設定した人や、iPhone使ってる人は拝見してほしいが、法の四八対、機の十一対、本願の二十八の比喩についての詳しい出典や背景などが書かれてある。

 

お念仏を称えるということをここまで嘆じた表現というか、情念というか、さすがは親鸞様と手を合わさずにいられない、最上級の讃嘆と味わわせていただいた。

 

ところでこのブログを書いているときに、とんでもない事件が起こってしまった。

安倍元首相が、弾丸に倒れるという事件が起きた。

世間の大事は、他のブロガーに任せるとして、私は暗殺の前日に、仕事終わりに昼食を済ませ、明日からの連休を思う存分仏教に浸かろうと思い、銭湯に行き、疲れを癒やそうと出かけました。睡眠不足でしんどかったのにもかかわらず、サウナに入り、水風呂に浸かり、サウナが2階にあるので、階段からおりてきて、歩き出そうとした瞬間に天地がひっくり返ってしまった。

 

頭を強打してしまった。ふらふらと立ち上がり歩き出したが、近くの他のお客さんから、「頭から血が出てるよ」と叫ばれてしまった。

 

それで打ち付けた後頭部にタオルを付けると、血が大量にあふれているのがわかった。すぐに脱衣所に向かい、銭湯のスタッフを呼び鈴で呼んだ。そして「救急車呼びますか?」「はい、お願いします」私は、多少の躊躇はあったが、頭なので、逆に様々な影響を考えて救急車を呼んだ。今コロナや熱中症などで忙しいのに、10分もかからずに来てくれた。

福井県立病院の救急センターに運ばれた。若い救急スタッフにベッドに縛られて、様々な機械を取り付けられた。心臓の鼓動が機械を通して聞こえてくる。

「ピッ、ピッ、ピッ」あぁ命の音!!少し感動しながら目を瞑っていると、携帯の音が鳴り出す。不機嫌なスタッフの表情を横目に電話に出た。

銭湯に行って帰らないのを心配した母親の声だった。「何してるんや?」「実は…」

一瞬笑われてしまった。情けない、それから、CTの予約をして、しばらくして頭のCTスキャンをしてもらった。結果は、骨折も皮下出血もないとの診断だった。ひとまず安どした。妻が自宅に帰ったようだったので、連絡を取り迎えに来てもらった。

 

それにしても情けない顛末だった。銭湯にも迷惑をかけたので、次の日に整形外科に行ったついでに、お詫びの粗品を買い、謝罪にうかがった。

 

一瞬先は闇だ。と言われるがその通りかもしれない。どんな宿業の結果が待ち構えているか念仏者とて受けなければならないのだ。いつ闇(災難)が訪れようが、功徳の大宝海にいるので、安心していられるのだ。そのことが何より感謝できる。

 

親鸞様の一乗海釈に出遇うと、はじめはなんじゃこりゃと悩んだが、様々な意見を頂戴して、やはり信心歓喜慶喜しかないと、味わわさせていただいている今日であります。

 

なんまんだぶつ なんまんだぶつ

毎日お念仏を称えているとどうなるか?②

「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、『経』に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」とのたまへるがごとし。{以上}
願海は二乗雑善の中・下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人・天の虚仮・邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。

 

合掌

お疲れ様です。さて、一乗海釈の中で、一乗にさらに海をつけている意味について述べておられるところです。

 

今私は猛烈に、友達に会いたい。高校一年生からの旧知で、出会ってから40年にもなる友人が、ある宗教団体から、連絡を取ることを禁止されていて、しかも私がその団体のナンバー2に手紙を書き、許可を得ないと連絡そのものをとることを許されないという。

 

とんでもない団体の名は、「浄土真宗親鸞会」です。

浄土真宗と名乗っていますが、中身は高森顕徹会です。

そのナンバー2の名は、高森光晴です。なんでそんな人の許可得ないといけないんだか?

 

ネットで検索したらわかると思いますが、とんでもない団体なので、手紙も出したくないし、関係もしたくないので、今連絡を取る方法はないんですが、先日会社の電話から掛けて、ようやく上記のことを聞き出した次第です。

 

去年の夏ごろから、ぱったりと電話がなくなり、しかも年賀状や、消息さえもわからなくなってしまった。彼は、精神の病で、通常の生活ができず、障碍者年金を受け、グループホームで、生活している人なんです。そんな彼の唯一の光が、浄土真宗親鸞会の教えかも知れません。ですが、明らかに親鸞聖人の教えとは違う教えを光にして生きている、彼を救えるのは私しかいないなんて、大それたことなのかもしれませんが、今の私の唯一の悩みです。

 

実際に会ったところで、洗脳から抜け出すにはどうしたらよいのだろう?

宮田先生や、飛雲さんがついてると光晴が聞けば驚いて、手放してくれるかもしれないが、彼との長い友情がもろくも崩れてしまったのは、親鸞会の彼に、私が親鸞会を脱会し、もう二度と入会しないことを伝え、良いことだと思って「信心決定したよ」とか「高森は間違っている」と不用意に発言したことなのかもしれない。当然彼は上司に相談し、その上司は「異安心だから近づかないほうがいい」とか言ったに違いない。

結局は自分の蒔いた種なのだ、悔やんでも悔やみきれない。

 

これが人間社会というものだなぁ。自分がよいことだと思っても悪い方向に転じてしまう。

あさましい、組織保護のために、人の友情まで引き裂く暴挙と思うと同時に、信仰というものの恐ろしさを感じる。

 

上記は私が抱えている問題とは違い、無明が功徳の宝海に転じ変わるとのお言葉は、お念仏の功徳を、はたらきをおっしゃったお言葉です。

 

私だけが信心得ても、満足できぬから、往還回向を与えてくださったのだ。二つの回向はどちらも他力。如来の本願力であるとお示しいただきました。

 

私のしでかした不始末ではあるが、取り返しが効かない。

必ず良い方向に向かいますように、今は彼の行く末を念じることしかできない。

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏