いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

信心とはなにか?③

 つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。
 この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり

 

お疲れ様です。2月があっという間に過ぎた。

仕事が忙しくて、どうしようもなかった。またまた私の異動が決まった。

おそらく今日内示が出てると思うので公開するが、たった1年で、交代だ。

だがおそらくだが、次店では、店長職になる。とうとうメインの店での店長だ。

全販売店でのモデル店となるべき店の店長だ、いろいろとアイデアを出して、実現していきたいと思います。気負うこともないが、精一杯職務を全うしていきたい。

 

さて、信巻の大信釈です。信心と行(念仏)は別のものではない。ですから信心の内容を述べておられるのだが、大行の内容と被ると思います。

大行を、述べておられるところと比較したい。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

しかしながら、あきらかに、大信の讃嘆がすごいですね。もう言葉のチョイスが、最大限でしょうね。ここまで讃嘆された上に、大部な引用の数々、私はこの信心を明らかにするために関東から京都に行かれた理由の一つだと思っています。

 

でもよく読んでみると、衆生側、つまり私に与えられるのは、信心であって、諸仏が称名しているとのことですね。悩んでしまうなぁ、阿弥陀様は、私にお念仏を回向してくださったのか?それともご信心を回向してくださったのか?

 

実感としては、お念仏で助かったと思っていたが、ご信心を回向されたことによって、お念仏させていただいているのか?信行次第ともいわれるが、いまだに解決していない。ご信心を回向されたことによって、自力が取られた、疑心がなくなったと理解すると、称える前にすでに自力心がなくなっていたことを思うと、信一念義の安心論題の解説通りではないかと思います。もちろん自覚はありますので、信の一念はございますが、確実な日時はわかりません。あれ?今までの胸中のわだかまりがなくなったのを自覚したのは、令和元年の11月11日の早朝でありました。その日を「本願帰命の日」

と私は定めております。

 

南無阿弥陀仏