いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

信心とはなにか?①

それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

 

皆様お疲れ様です。長らくブログを更新できなかった。

顕浄土真実教行証文類 行巻を味わい、お念仏の心を少しでも理解できたらと思い、書き連ねた。駄文の数々を見て、げんなりしてしまった。

 

私の仕事としても、立場が変わり、店長からまた降格して、代理として日々を過ごしている。健康診断の結果、大腸に潜血があるというので、大腸検査を予約した。

 

さて、信巻へ入るわけだが、ここが真宗の肝要で、親鸞聖人が一番明らかにされたかったことと拝察する。

 

別序と言われる文章の最初のお言葉です。先達がいろいろと言われていて、己証の別開だと断言する曽我量深氏ですが、私はそうは思わない。ひたすら弥陀の本願を仰ぎ、当時の道俗の誤謬を正そうとされた、または法然聖人の教えを正確に明かされた巻であると私は仰いでいる。

 

信心同異の諍論でも、真実信心はみな如来から賜る信心です。ですから、そこを深く味わうと一味の世界が広がっていきます。ですから難しく考えることもなく、書かれたことを素直に受け取っていきます。

 

まず信心とは、物でもないが、獲得(ぎゃくとく)と書いてある。

浅はかな凡夫、人間はこれでまずつまずく。心のことだから、心の状態が、今までの自分と大変わりするんじゃないかと妄想するのです。

 

私の先生は、よく阿弥陀様からのプレゼントですとか言われることがあるので、なお混乱するのではなかろうか?いや申し訳ない、先生の悪口ではない、何か素晴らしいものだと思ってほしいというお気持ちからではないかと推察する。

 

あるいは、桜嵐坊さまは、お浄土への切符、チケットみたいな言い方をされるんですね。

 

あるいは、信心を無疑と言われる。不疑とは違うというのは、稲城和上がおっしゃっておられた。人間が疑わないことなど不可能だ。ましてや死んでから後のことなどわかるはずもないことなのだが、南無阿弥陀仏には、疑いを除く智慧が備わっていると、親鸞様は断言されていることは、以前も述べたところだ。

 

自覚として信心をいただくと、名号が私にはたらいているのか、不思議にも安堵感が広がっていく。信前は、ああでもないこうでもない、ああ言えばこう言うみたいな、そうは言うけどわからんなぁ~と文句ばかり言っていた。

 

ある日を境に、ありゃ何も変わらなくていいじゃないか?と阿弥陀様は、「お前をそのまま助ける!」という御心が届いた。何の前触れもない、一瞬のことだった。

 

先生とのやり取りを延々としていただけだが、先生の言われることはいつも一つ。

「そういう貴方(私の名前)を阿弥陀様はなんとおっしゃっていますか」

あるいは、「あなたを助けることに、何か条件をつけていますか?」

 

とやかくも、こんな悪い奴は救われるはずがないと、本願に漏れたものだと勝手に思っていた。だから文句が止まらなかったことは今もよく覚えている。

 

だから問答というのは非常に大事だ。阿弥陀様のお救いは、無条件なのですが、こちらから注文をつけてしまうのだ。

 

さて私が信心を得る話ではない、仏様、如来様が私に信心を与えて救おうというお話なのでした。

 

南無阿弥陀仏