このうえの称名は御恩報謝と慶びます!!
皆様お疲れ様です。
今日はどしゃ降りの中、250部の新聞を3時間かけて配達してまいりました。
毎日文句も言わず配達していただいている配達員が私用で一日お休みしたのです。全くの怒りもなく、ただただ感謝しかありません。ところがどっこい普段楽しているもので、しんどくて、お念仏も暇あらず、全く出ませんでした。なんと情けないことか。
こんなにあさましい私に届いたご名号のはたらきとはいかなるものか?
またぶっちゃけさせていただきます。
先回のブログで、フェイスブックにもシェアさせていただいているので、いろいろとご質問をいただいた。
ご名号が届いて、私が一声称名したことで、往生が定まると述べたものだから、往生の正因は、称名ですか?と質問された。いやいや往生の正因は信心ですと返してしまうとこれも私は違うと思ったのです。
後先の質問もあった。ご信心獲てからの最初のお念仏で、往生定まるのですね?と。
どう答えたらいいのだろう?
大宇宙の宝、はたらきであるところの、名号、十方に響き流れていると経に説かれてある。そのお宝が、わが身に届いたのです。
今まであれほどいちゃもんつけていた、わからないと叫んでいた疑いが除かれ、無くなった、それがご信心なのだろうか。ふっと口から出たお念仏。あれ?もやもやした心はどこへ行ったのだ?信の一念とはいいながら、極速円満されてしまうと凡夫には不思議というほかないのでした。
順番があるものでもないというのが、わたしの領解であります。
お聖教を拝読したり、あるいは同行に尋ね歩くのは、最初は自分の信心調べでありました。他人から認定されるものでもないが、お聖教にその証を求めているのかもしれません。御文を拝読しても、どこぞの団体のように断章取義に陥らず、一言一句吟味しています。
往生の正因は、称名ですか?の質問に、下記のブログを紹介させていただきました。
TENさんありがとうございます!
まだまだ宗祖の仰りたいことがすべて理解できているとはとてもいいがたいのですが、やはり好きなんです、しんらんさまの生き様というか、発言とかからくみ取れる心が。
とりあえず今日はここまで。破闇満願釈もすごいので早く言いたいけどやめておきます。