いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

慶ぶべきことは、お念仏に遇えたこと。

合掌

 

お疲れ様です。

何か心がソワソワする。環境が変わって、緊張している私ですが、お念仏を称えていると、下支えされているような気がします。

 

造書の意を述べる

ここに愚禿釈の親鸞慶ばしいかな西蕃・月支聖典東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

 

教行証文類を著された宗祖が、喜びいっぱいに語っておられます。私たち真宗門徒として、この現代に生まれ、幸せなことに、文字を読めるようになり、考えを述べる機会が与えられたことは、最上の幸せ者と思わずにおれません。

 

しかもネットで、現代語まで読めるのです。ありがたいことです。

六要抄、赤沼氏の教行信証解説本、そんなものまで読めてしまう現代ではあるが、逆に異論や、別解が限りなく、また断章取義に陥って、宗祖の御心を誤解して、人を惑わせてしまう団体もあるので、注意が必要です。

 

私は、法然様と、親鸞様の教えにただ一つの違いもなく、首尾一貫していると思っています。専修念仏と信心正因称名報恩 言葉は違うが一緒だと思っています。

 

なんまんだぶ に何の違いがあろうか?

 

衆生の上か、仏の上か。あるいは、自力の心か、他力でなければならないとか、一念でなければならないとか、多念であるとか、いろいろ立場、教義があるだろうが、結論から言えば、阿弥陀仏の願い、誓いに治まります。

 

阿弥陀仏は、お念仏が衆生の上に活動している相をもって、良しとされているのではないかと思います。

 

私がお念仏を称えて、それを聞いて真似をして、なんまんだぶと子供が称えているのを見ると喜びを感じます。

 

亡き人を偲び、お念仏を称える。導師が称え、会葬者が称える。まさに活動している姿とは言えないだろうか?

 

本願が、空しいものでないことが、このごろ殊に、感じられる昨今です。

 

南無阿弥陀仏