救われたかどうか、臨終までわからないのか?
合掌
お疲れ様です。
今から30余年も前にはじめて聞かされた平生業成について語る日が来るとは思わなかった。
人間に生まれて、何をなすべきか?人間にしかできない尊い目的がある。人生に決勝点がある。そのほかに道はない!
それを達成すればいつ死んでも悔いはない!→この世で絶対の幸福になること。
そのためには、唯一無二の先生から聞かせて頂かなければならない!
全て間違いだった。
全くキリもない、ゴールのない話を聞かされていた。
法話会場で嘆息して、あゝ今日も聞ききれなかった。まぁ死ぬまでには何とかなるだろう。などと自分に言い聞かせていた。法話会場で皆黙ってはいるが、同じ思いに違いない。法悦に浸る人は、以前よりいない。少なくとも私が学生時代には、まだまだ元気で、サポートする講師もいなかった。
せっかくの浄土真宗の教えが、T教で地に落ちてしまった。
さて今日は、平生業成の義を、御文で明らかにしたい。
蓮如上人の『御文章』一帖目第二通に(真聖全三―四〇四)、
当流、親鸞聖人の一義は……この信をえたる位を、『経』(大経の本願成就文)には「即得往生住不退転」ととき、『釈』(論註の意)には「一念発起入正定之聚」ともいえり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。(*)
同じく一帖目第四通には(真聖全三―四〇六)、おおよそ当家には一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願の我等をたすけたもうことわりをききひらくことは……仏智他力のさずけによりて本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなわち平生業成の義なり。
決して死ぬまで分からないということはないのです。
平生の一念発起するところの信心にて往生が定まるのです。
そこまでは、方便が必要と言われるだろうが、捨てないと死ぬまで助かることはありません。それが廃立の教えです。いつのまにかS会は、真仮をはっきりと説かなくなってしまった。
念仏一行の教えを捻じ曲げて、称え心の説明している間は、ダメです。本願に、十念が誓われていることをお礼の念仏のみと理解しては、読み損ないです。18願の行信は、明らかに不回向の因果なので、他力と言われます。
つまりは、信前信後関係ない、南無阿弥陀仏の因果が成就したことが行者に現れた姿と味わいます。
速やかに方便を離れて、T教から離れて本願を正確に聞くべきです。