いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

どんな人にお念仏を勧めておられるのか?

合掌

お疲れ様です。

新型コロナの第4波が、来ている昨今、火宅無常の世界、まさに厭うべき浮世である。

 

有縁を勧誡する

 

まずは、私とこの世を共に生きている妻に、お念仏をお勧めしてみた。

「この世は、苦しい。なんで生きているのか?何のために生きているのか?」

と私がつぶやいていると、妻が「何が苦しいの?仕事辞めたいんか?」と。

 

生きているのに必死だと、仏法の真実は、全く耳に入らない。

どうしたら耳を傾けてくれるのだろうか?妻は、目が悪い。両目とも白内障の手術もし、緑内障で、目薬を差して進行を抑えている状態だ。足も悪く、外反母趾も第1趾が、第2趾の上に乗っているような状況だ。歩きにくそうだ。

 

障碍者の自立支援をしているが、自分が障碍者になるんじゃないかと心配するほどだ。

 

私が事あるごとに、お念仏を称えていると、最初は無視していたものの、しまいには「うるさい!」と言われてしまった。

 

同じ屋根の下で暮らしているが、それまでの宿業が、まるで違うので、私はほとほと困ってしまった。

 

阿弥陀さんは、どうやって私たちにお念仏を届けたのだろうか?

宗祖が、教行証文類を著して、間違いなく理解してもらうにはどうされただろうか?

 

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

お釈迦様の教えは、阿弥陀様が遣わされた方であるし、地球上で現れた唯一の仏様であるわけです。そのお釈迦様を、人が作ったものであるとか、そんな昔のことなんか今役に立たないなどと思っている奥さんがいる。

 

そうかぁ、仏教をそんな風に思っているのか?悲しいではないか。

蓮如様が、この世で宿善のある人とない人を判断するポイントを御文章でこう仰っている。

「仏法を貴く思い、後生を大切と思う人」が、宿善のある人ということです。

御文章のいたるところで、宿善・無宿善を分別されるように言われているのは当然のこと。誰彼構わず無理にすることはできない。また仏法を聞かない人を馬鹿にしたり謗ったら、逆に謗られてしまう。注意しないといけないことなのだ。

 

とかくお念仏を称えつつ、生活していけば、おのずと仲間ができてくる。SNSでお念仏を称えているだけで、イイね!をしてくださる方がおられるのだ。

 

衆生済度に、正覚をかけておられる方がいらっしゃるのです。たまたま少し早かっただけで、時間は永遠なので、まだまだ慌てることはないですが、千載一遇のチャンスといえばこのことです。

 

この行信を、お念仏を獲得するべきです。宗祖のお言葉は大変に重たいです。

信順いたしましょう。

 

南無阿弥陀仏