毎日お念仏称えてるとどうなるか?
「一乗海」といふは、「一乗」は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。阿耨菩提はすなはちこれ涅槃界なり。涅槃界はすなはちこれ究竟法身なり。究竟法身を得るはすなはち一乗を究竟するなり。異の如来ましまさず。異の法身ましまさず。如来はすなはち法身なり。一乗を究竟するはすなはちこれ無辺不断なり。大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
合掌
お疲れ様です。
お店も変わって立場も変わって、休みも多くなり、ゆっくりしていたが、私の連休も最終日なので、今思ってることを書こうと思います。
いよいよ教行信証の、行巻も最後のほうになりました。
先の、他力というは如来の本願力なり という言葉の後に、さてお念仏が一乗海だというのはどういうことなのか?そのご解釈です。
一乗というのは、ただ仏になるただ唯一の道、二も三もあることないとおっしゃるわけですね。そのことを述べるために思うことは、世界に雑多な宗教がいっぱいあり、そのそれぞれの宗旨が、自分のところは真実だといってるわけですが、宗祖がおっしゃることには、永遠の真理が響き渡っているという思いがある。
浄土真宗が世界を救う。(阿部信幾氏)
○○さんがシェアお願いしますと熱く語っていたので、シェアさせていただきました。
阿部さんご自身でおっしゃっておられるが、口が悪いが、かなりスカッとします。例の築地本願寺の常例法話のYouTubeをさらにシェアしている、東京・埼玉恵日会のYouTubeチャンネルを貼り付けました。
①~⑨までたっぷり聞けるが、その中で⑦をお勧めしときますw
とにかく依然として、阿部さんと言ったら、「阿弥陀様は、お念仏せよ」とおっしゃっていないと法話で語ったことが、一部の念仏者の中で問題になっており、お聖教読んだことあるんかと聖教を根拠にかなり喧々諤々あったので毛嫌いされておられる方が多いが、御文章などでも、ただお念仏しててもお浄土には往けませんよと蓮如様もおっしゃっておられるし、教行信証で明らかにされたことは、法然様の選択集を書写を許されたお弟子の中でも、聖意がわからず、自力のお念仏にとどまってしまった方々を何とか真意を伝えたいと他力のお念仏を勧められたことだ。
先手のお救いがあって聞其名号、十七願成就の南無阿弥陀仏を聞いたら、ありがとうございますしかないではないか?何かこちらから付け加えるものはないから、称名は報恩といわれるのではないか。
なんだかんだ布教師五十年のキャリアの中で培ったロジックもあるのだろう。法義から逸脱してるものではないと私は思っている。
Abcさんはどう思っておられるのだろう。お念仏をより大事にしておられるようですので、賛同はできないだろうなぁ。まぁ時間のある時にぜひご視聴をお願いしたい。
なんまんだぶつ なんまんだぶつ
他力とはなんですか?
他力といふは如来の本願力なり。
いよいよ行巻もクライマックスに入りました。述べておられた御開山が、結論なのか、持論をのべてゆくところなのかわかりませんが、
いろいろ他力ということについて、説明せねばなりませんが、桜嵐坊様がピンチだそうで、ぜひチャンネル登録者を増やしたい。いい男で、歌もうまくてしゃくですがw、宣伝させてください。
それにしても、逸材です。一方築地本願寺のチャンネル登録数が1.41万人!!
ロックオンされていると、戦々恐々だとおっしゃるが、無問題!!
これについて思い知ることは、仏教は、日本人にとって、大事な教えだし、聖徳太子も、日本は大乗相応の地だと、親鸞様の夢告の中で、おっしゃっておられます。
親鸞様が、他力と言われた根拠に、曇鸞大師の、論註の五念門を出されておられますが、衆生の行ではないという結論でございます。まぁ、当然ですね。
この言い切っていかれる御開山が、愛おしくて仕方がありません。
それにしても、桜嵐坊さまのYouTubeは面白い。
ですが、私のハマっているのは、三浦真証氏のYouTubeチャンネルですw
もう会社のプレゼン並みの仏教講座ではないか!すごい!
もっとチャンネル登録者がいてほしいと思うこの頃です。
まだまだ600人強なので、ぜひ登録お願いしたいところです。
でも私も継続は力なりで、続けていけば、みな見たくなるに違いないと確信しております。
仏教は難しくない。だって他力を教えたものだからです。
わからなくても、救いの対象なんていうのは、他にないんじゃないかな?
難信と言われるのは、そのまま聞くことができないからだ。
真実の行とは?
これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。
お疲れ様です。
コロナ禍が収まりません。仕事にも支障を来し、その中で私の異動が決まった。もう私も57歳ですよ。定年まであと3年しかないんです。上昇産業ならいいが、下降産業です。私への期待は、人間関係の仲裁。なんかトラブルになっているようなので配置転換です。とはいうものの、会社には文句はないが、今の職場への思いは強い。混乱するのではなかろうか?まぁ、私などいなくても何とか回っていくものだ。
親鸞聖人が、大行を無碍光如来の御名を称することだと冒頭に言われて、そのあと様々な経釈を引用され、結論を述べておられるところです。
大行と言ったからには、私の行いであるにもかかわらず、仏様が選択された行いであるから大行であって、私の行いには一切の善根功徳がないと、前回も書いた。功徳成就の名号が回施されたのだから、一ミリもこちらの善は認めないから、至極無碍なのだ。
そのような思いの中にいると、このお言葉が体中に沁みてくるではないか!
コロナ禍において、もはや県外からお招きすることができないので、Zoomというアプリでオンラインですることを思いついた。先月からやっているのだが、ZoomもProにアップグレードして、SNSで同時配信できるようにした。同時にYoutubeにもアップできるのだが、編集したいので、あえて同時にはしてない。
次回のイベントへのリンクだけ、ここに公開したいと思う。
リンクはこれでいいのかな?
Zoomのミーティングに参加されたい場合は、Facebookで、carsa.jを探してください。
仕事が忙しく、普段はまったくSNSその他のことに時間を割くことができない。睡眠時間を確保するのが大事です。遠距離を車で通勤すると、居眠りで命を落としかねないし、一度死にかかってから、仏縁に出遇ったということもあるが、二度と事故は経験したくない。それにしても夜中仕事は、疲れる。その分給与は余計もらわないといけないんだが、会社が儲からないのに、今は昇給は難しいだろう。世知辛い世の中だ。
不可思議なお念仏のはたらき
乗大悲願船
しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。
あっという間に3月になってしまった。
毎朝のおあさじに欠かさず参っていたら、60日参り達成してしまった。この調子で、100日参りを達成しようと思っている。といっても朝6時からの30分の勤行に参加しているだけだが。1年前には、してなかったルーチンを取り入れた。
毎日が、お念仏で明け、お念仏で暮れるようになった。
そうすると、心が歓喜で満ちてくるようになる。
引用にあるように、心に闇がないというだけで、焦りや不安が消えていく。
宿因、宿業もこれから先当然受けていかねばならないが、不思議に恐怖や畏怖がないのだ。世間や家計は大変なことになっている。また仕事でも、どう考えても下降線をたどっている産業に従事している。会社も赤字に転落して、総務部長も頭を抱えて、申請書を持って行ってもなかなか印鑑がもらえず突き返されるのだ。
念仏者の生活とは、他力に生かされるといわれているが一体どういうことなのか?
機に向かえば、愚かさや浅ましさしかない我が身が知らされ、法に向かえば、そのような私を助けずば仏にならないと誓われた本願が頼もしく有難いと味わえるのです。
毎日お勤めに参らせていただいている住職から、珍しく質問されて「なんで浄土真宗に興味を持ったの?なんではまったの?」と聞かれて答えに窮してしまった。
…何度考えてもわからない、なんで聞いたのかわからないんですよ。
様々なことに興味を持ち、いろいろやったり経験してきたが、なんでお念仏称えてるのか、はっきりと答えることのできる人がいるだろうか?よき人の仰せにしたがってただ念仏称えているという人が多いのではないだろうか?
法然聖人のような方は、還相の菩薩であるとおっしゃったということだが、引用では普賢の徳に遵うと言われているが、浄土に往生してからの話ですが、自在に衆生を勧化したいものだと思ってしまう。
休日に、YouTubeで築地本願寺の常例法話をお聴聞していると、入れ替わり立ち代わり布教使がご説法されておられるが、みなすごいなぁと感動します。
無二の善知識の話しか聞いてはならんと言っている団体もあるので、注意が必要です。
本当に人に依らず、法に依れとお釈迦様が説かれた通り、間違いなくお念仏の心を伝えて下される伝統教団があるのは心強いですね。
私にとって、洗脳があったのかもしれないと思えるのは、上記に上げた善知識は一人しかいないという問題と宿善問題。親鸞聖人の教義を利用した人集め金集めの活動をしたことですね。みな後生解決したい、信心決定したい、地獄に堕ちたくない、人情まで利用して、恐ろしい謗法ではないか。。。許せないというのはこのことです。
ロシアのプーチンが許せないというが、まさに業縁だろうなぁ。池上彰のテレビでなぜ戦争になってるか?その理由を解説していたが、プーチン寄りじゃないかと思うほど、なんでそうなったか納得できた。
相変わらずコロナの感染は続いている。コロナになったと知らせてくる知人もでてきてしまった。仕事にも支障をきたしている。
果たして衆禍の波が転じているであろうか?
先に述べたように、難度の海は、生きていれば全く変わらないのです。
大船に乗っていると、衆禍が次から次にやってくるのは、想定内なんですね。
先哲が、喜んで苦しんでいけると言われていますが、いつ死んでもいいからなんですよね。死ぬことほど苦しいことはないとみな思ってる所が解決してしまうわけですからね。
これからもぼちぼちやっていこうと思っている今日この頃です。
阿弥陀様は、どのように私を救おうとされたのか?
光明と名号をもつて十方衆生を摂化したまふ
合掌 お疲れ様です。
新しいノートPC を購入したので、さっそくとブログを更新しようとしております。
教行信証の行巻もズバリズバリと結論が述べられているところです。
法然上人と親鸞聖人の教えが、違うのではないか?などと考える人がいて、次のお言葉がかなりややこしいのだが、これを一つ覚えておくと、なるほど違いがないなとわかることであります。
まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃 六五九)とのたまへり。
また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。また「真宗遇ひがたし」(散善義 五〇一)といへるをや、知るべしと。
私たちの往生を誓われた誓願だが、どうやって救おうとされたのか?
仏教は、因果の道理です。因と縁とが和合して、果が生じるわけで、私たちは如来から見れば、実は救いようもない奴なんですが、広大無辺な大慈悲がかかっており、すでに悲願が成就しているわけです。
つまりは名号が私に届くことにより、タネがまかれることになりますね。そのタネには、すでに往生の因が込められていますので、私の元で称名として形を表し育て上げるのです。それが光明を縁としてのおはたらきであります。これはわかりやすい。
初重の因縁と言われますが、これはお念仏がタネとして私の往生という証果が定まるという、三法【教・行・証】を表すもので、法然上人の教えですね。
そして後重の因縁とは、真実信心をタネとして光明・名号が縁となり、往生の証果が定まるという義でございました。これは親鸞聖人が、明らかにされた四法【教・行・信・証】でした。
どちらにしても、ご名号を私が正しく受け取ることで、私の往生が定まるとの義でございます。
お念仏を受け取ると、信心も念仏もともにタネと味わえます。
何しろわたくしのなすべきことは一つもないのです。
RCさんではないが、本願成就のお話を聞いて、ご安心たまわりますと、あぁ何にもこちらから必要なかったんだと味わえるのです。
今日もありがたや、うれしやと、称名に励むのであります。
お念仏を称えたら、こんな素晴らしいことになる!
行信利益
しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。
本願力によって、私にお念仏が届いて、早2年が過ぎた。
その間、このブログもぼちぼちと更新して、浄土真宗のご信心の味わいを書いてきた。また仕事においては、課長として、店を任せられるようになり、何とかお店を回している。
日々様々なご縁に触れて、お念仏を称えさせていただいている。
福井で、毎日勤行の配信をしている、長松寺様と知り合うことができた。
私の少し薄くなった頭もご覧くださいw 後ろ姿も映っています。
何しろ毎日配信されているので、失敗したのも全世界に配信されます。まぁそういうリスクも抱えていても、大事なことなので、包み隠さず中継されている。
だれも補助がいない、全部ひとりで配信されておられるのだ。鐘くらい私が撞かせていただきたいと思うのだが、座敷の裏をバタバタと毎日走る音が聞こえている。
広い本堂に、実は参詣者は私一人…さみしい限りだ。コロナ禍で、集まれないといっても、早いし、寒いし、こうやって配信されると、YouTubeでお参りする人も増えているようだが、実際に阿弥陀様の御前で、させていただき、和讃を唱和するこの歓びは、してない人には絶対わからないことなのだ。
信前の人は、たぶんこれが功徳となり、阿弥陀様に認めてもらいたいとか、これだけお参りしているのだから、極楽参り間違いないとか思うのかもしれない。念仏者とならせていただくと、私の行いなど、一生参ろうがゼロだと自覚しているので、すべては御恩報謝と存じ歓び候ですよ。ましてや念仏者は、毎日朝夕阿弥陀様に手を合わさないといけないと思います。私たちの功徳は、すでに成就していますので、足すことも、努力することもいらないので、日々徒然に、そして自然に、まかせて精進すればいいのです。
矛盾していることを言ってるような気もしますが、グダグダで大丈夫と、新年からありがたい言葉もいただいた。
今日も嬉しや、南無阿弥陀仏。
お念仏には、私を仏にする力がある?
合掌
お疲れ様です。新聞の休刊日とはいえ、店長として月の半分に近づき、皆のシフトを考えなければいけないので、午後から、職場に行く。
やるべきことはたくさんあるのだが、意欲があまり出ない。
このブログも、教行信証の最も大事なところに入ってきた。
親鸞聖人が、お念仏を讃嘆して、さぁそれは一体どんな力用があるのか?明らかにするところです。
決釈と銘打っている。
念仏成仏
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
私に回施された南無阿弥陀仏の名号が、私の口から出るのだが、もはや自力の行ではないとおっしゃっている。
だから、どれだけ称えようと、一声だろうがもう関係なく、どれだけ称え心を整えようが、一生懸命に称えようが、つぶやくようなお念仏であろうとも、皆等しく成仏を期するべきなのです。念仏往生とここでは仰っていないところにも注意が必要です。
当然ながら、経釈に忠実な宗祖ならではの言い回しです。
念仏成仏はこれ真宗なり。(法照)
これはすごいことです。往生即成仏となぜ宗祖は領解されているのであろうか?
日本の仏教の歴史でいえば、凡夫が仏の悟りを開くことを教えているのは、二双四重の教判でももちろんあることはありますが、かなり難しいというか、やはり凡夫には不可能なことなんですよ。
まさに横超の直道とよべるものです。
人生は、お念仏に出遇うためのものだった!
と結論してもよろしいのではないでしょうか?
仰いで、いただくべき言葉であります。