お念仏は、お呼び声なの?
南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得
お疲れ様です。今日は祝日です。勤労に感謝しましょうという日なので、私は休んでいるが、部下は、今日の朝あったクレーム処理に、出社している。私は休んでいるが、すぐにお客様に連絡して、こちらの不備をお詫びして、一件落着した。
世間事は何とかなるが、後生のことは、阿弥陀様にお任せするしかない。というか、すでにお任せせよという命令が、十劫も昔から出ていることも全く知らなかった。
善導大師の六字釈を承けて、親鸞聖人は、南無阿弥陀仏とはなにか?について、字解から説明されている。
しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。
お呼び声どころじゃない、勅命なんです。勅命と言ったら、絶対に逆らうことのできない、近代では天皇陛下からの命令を勅命とよんでいたんでしたね。しかも取り消すことができない命令です。
そんな過去から、出ている命令が、南無の中にあり、阿弥陀仏は、その内容、働きとなって私に届けられているというのです。
先日、私のブログを見てくださった方が、「阿弥陀様は、先にお浄土に行かれた方とともに、いつもにこにこと待ってくださっている感じかなぁ?」とコメントされたので、思わず、「いや阿弥陀様は待っておられません、今ここにきて一緒におられます」と言ってしまった。皆さん念仏者の方々ばかりでありながら、あの有名な二河の譬も、彼岸におられる絵を見ているとそういう受け取りになり、やがては彼岸にたどり着けるという理解になるでしょう?
日々お念仏していると、まさに心が歓喜に満ちて、知恩報徳の気持ちが起こり、それを様々な人に伝えたいという、常行大悲の心も起きてくるのです。あれ?これは親鸞様が、十種の利益についておっしゃったことと同じじゃないか?と思うようになりました。つまりは、やがて未来がお浄土になるのではない、今から活動してるんだという実感があります。日々聖教を拝読させていただくのも、菩薩の修行と思えば全くの苦でなく喜びになるのですね。
近所のお寺へのおあさじに参加するのも、喜びでしかなくなってしまった。睡眠欲に負けていけない時があるが、勘弁してください。
ここにきて、私を動かしているのは、まさに本願力ではないかと思うようになりました。仏勅を領受したときから、です。今週末にも、宮田先生をお招きして、福井で安心問答のライブ配信をさせていただきます。よろしくお願いいたします。
お念仏は、私の願いはかなえてくれるの?
しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。
お疲れ様です。
大変久しぶりにブログを更新します。何をしてたんだと思わないでください。
毎日憶念の心で、過ごしておりました。店長になりましたが、部下は誰一人私の言うことは無視して勝手に仕事しております。事務員に愚痴をこぼすと、店長は皆に信頼されていませんと、指摘される始末です。情けないです。
教行信証を味わいを含め、拝読しています。いわゆる「破闇満願」の御自釈であります。
これは究極に、仏の立場から仰られたお言葉なので、念仏称えても何も変わらないぞ!と突っ込まないでいただきたい。衆生の志願と書いてあるじゃないかと思われると思いますが、違うんですよ、実は、阿弥陀様は、なにしろ五劫も思惟されたので、私たちのことはすべてお見通しなんです。
ですから、私たちが満足するようにしてくださったお心が届いた念力が、私の称名になっているんです。
でも勘違いしないでいただきたいのが、ではお念仏称えたら助かるんですか?と思う人もいるんですが、とにかく阿弥陀仏のお救いは、無条件なんですね、これが不思議なことなんです。こちらから用意するものは要らんというお心が届くんですね。
よくお念仏の、六字の、南無阿弥陀仏のいわれをよく聴聞していただきたいんです。
面白いブログを、紹介いたします。
在家の方ですが、非常によく南無阿弥陀仏の心を書いておられます。
フェイスブックに、貼り付けたらなぜか違反と書かれて削除…ここで公開させていただきますね。
【非公式】安心問答 YouTubeチャンネル 福井座談会 2021.08.29
このうえの称名は御恩報謝と慶びます!!
皆様お疲れ様です。
今日はどしゃ降りの中、250部の新聞を3時間かけて配達してまいりました。
毎日文句も言わず配達していただいている配達員が私用で一日お休みしたのです。全くの怒りもなく、ただただ感謝しかありません。ところがどっこい普段楽しているもので、しんどくて、お念仏も暇あらず、全く出ませんでした。なんと情けないことか。
こんなにあさましい私に届いたご名号のはたらきとはいかなるものか?
またぶっちゃけさせていただきます。
先回のブログで、フェイスブックにもシェアさせていただいているので、いろいろとご質問をいただいた。
ご名号が届いて、私が一声称名したことで、往生が定まると述べたものだから、往生の正因は、称名ですか?と質問された。いやいや往生の正因は信心ですと返してしまうとこれも私は違うと思ったのです。
後先の質問もあった。ご信心獲てからの最初のお念仏で、往生定まるのですね?と。
どう答えたらいいのだろう?
大宇宙の宝、はたらきであるところの、名号、十方に響き流れていると経に説かれてある。そのお宝が、わが身に届いたのです。
今まであれほどいちゃもんつけていた、わからないと叫んでいた疑いが除かれ、無くなった、それがご信心なのだろうか。ふっと口から出たお念仏。あれ?もやもやした心はどこへ行ったのだ?信の一念とはいいながら、極速円満されてしまうと凡夫には不思議というほかないのでした。
順番があるものでもないというのが、わたしの領解であります。
お聖教を拝読したり、あるいは同行に尋ね歩くのは、最初は自分の信心調べでありました。他人から認定されるものでもないが、お聖教にその証を求めているのかもしれません。御文を拝読しても、どこぞの団体のように断章取義に陥らず、一言一句吟味しています。
往生の正因は、称名ですか?の質問に、下記のブログを紹介させていただきました。
TENさんありがとうございます!
まだまだ宗祖の仰りたいことがすべて理解できているとはとてもいいがたいのですが、やはり好きなんです、しんらんさまの生き様というか、発言とかからくみ取れる心が。
とりあえず今日はここまで。破闇満願釈もすごいので早く言いたいけどやめておきます。
浄土真宗の行とはなにか?
お疲れ様です。
浄土真宗において、願行具足の南無阿弥陀仏以外に必要なものはない!
とはいえ、実際に日暮させていただいていると、なぜか誰かに伝えたいなどと、浅学の身でありながら思うのです。世間においては、仕事に励み、私も一応、店長としてお店を預からさせていただいて毎日重圧を感じている。家族も奥さんは、思いがけなく骨折して仕事を休んでいる日々、娘はお腹にやっとできた子供を宿している、息子は何やら病気で、仕事を休みがちで、新型コロナで、県独自の緊急事態宣言ということで、在宅ワークを余儀なくされている状況で、まさに難度の海に沈没しているんですが、私は心は浄土に遊ぶなり、このようなブログにありたけの思いをぶつけるのです。
教行信証も行の巻に入り、一挙に難しくなったので、1か月以上もブログを休んでしまった。その間何もしてなかったということはない、様々な書を読み、注釈版 浄土真宗聖典 第二版も購入し、勤行もしてなかったので、浄土真宗本願寺派 日常勤行聖典のCDと本を購入し、お勤めも励んでいる。例の赤沼氏の教行信証の証の巻まで読み進めたのだ、何か結論のようなものが出てもよさそうではないか?
大行とは、無碍光如来の御名を称するなり これが浄土真宗の正しい行だとおっしゃるのです。
私たちの行為については、実感としては何も役に立ってはいない。いくらお念仏を称えても、いくら勤行しても、何に役立つというのか?
あゝこれが、非行非善と言われたことなのか!
大行と言われた場合、私の行でありながら、主体は如来、諸仏なのです。十劫も昔にすでに成就されたところの名号を諸仏方、お釈迦様も含めて、そのお名前を称賛し、お勧めしたことを聞くことによって私に届き、その勧めに応じて一声称えたならば、私の往生が定まる。このことが大行ということなのでしょう。
正定(しょうじょう)の業とも言われます。
この大宇宙に、そのはたらきが届かないところはありません。私自身、17願と18願は、成就文からいくと、完全に呼応しております。17願が因で、18願は
果のような気がしています。異訳経では、一緒になっているのもあるそうです。
行信不離と言われるのも納得しています。皆様はいかがでしょうかね?