いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

たまたまお念仏に遇えることなんてあるんですか?

合掌

お疲れ様です。桜の花が、あっという間に散っていった。まさに短い命を象徴するようだ。

 

聖語

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。

 

 

この言葉を初めて見たのは、某S会に入会し、勤行をするときに、会員信条の後にこの聖語が、書かれてあった。もちろんはじめは意味など分かるはずもなく、このお言葉の意味を、何日間かけて、聞かせていただいた。

 

最初の 「ああ」は、びっくりしたことだと、しかも待ちに待ってようやくたどり着いた感動が表れている「ああ」だと。

 

例えで、昔はよく停電することが多く、しかも復旧するまでに、何時間もかかるのです。暗い闇の中をろうそくの灯りだけを頼りにして、あっちぶつかりこっちぶつかりして、不便な思いをしていた時に、パッと電気がついたときに、発する「あらー!ついたついたー」と喜びの「ああ!」だとか聞いた思い出がある。なんと話がうまい先生だと感動したのを覚えている。

 

苦しんで苦しんで、ようやく出会えた感動を、宗祖はありったけのお言葉で伝えようとなさっておられるのです。

 

ところが、次に、「たまたま」と書かれてある。仏教は因果の道理を教えているのに、たまたまとはどういうことなのだろう?偶然ということを万に一つ、億に一つもないと教えているのではなかったのか?

意外にも思えるこの「たまたま」ですが、現代語訳的には、偶然にもという意味ではなかったようです。仏の慈悲は広大無辺、しかも平等にかかっていることを考えると、必然的にわが身が受け取らざる得なくなったかのような意味なのです。無縁の慈悲であるために、どんな状況だろうと、投げられた球は受け取らないといけないようです。

勅命ですからねぇ、取り消しが効かないし、いったん出ると聞かざるを得ないのです。

 

そのあとの「行信」「宿縁」「疑網」「聞思」など、難しい言葉が並びます。

 

このブログでは一つ一つ解説してはおりませんのであしからず。

本願を信じ、念仏申さば仏になる、という簡単な理を教えられたのが、浄土真宗なんですよ。

 

聖語はそのまま味わいましょう。

 

南無阿弥陀仏

 

どんな人にお念仏を勧めておられるのか?

合掌

お疲れ様です。

新型コロナの第4波が、来ている昨今、火宅無常の世界、まさに厭うべき浮世である。

 

有縁を勧誡する

 

まずは、私とこの世を共に生きている妻に、お念仏をお勧めしてみた。

「この世は、苦しい。なんで生きているのか?何のために生きているのか?」

と私がつぶやいていると、妻が「何が苦しいの?仕事辞めたいんか?」と。

 

生きているのに必死だと、仏法の真実は、全く耳に入らない。

どうしたら耳を傾けてくれるのだろうか?妻は、目が悪い。両目とも白内障の手術もし、緑内障で、目薬を差して進行を抑えている状態だ。足も悪く、外反母趾も第1趾が、第2趾の上に乗っているような状況だ。歩きにくそうだ。

 

障碍者の自立支援をしているが、自分が障碍者になるんじゃないかと心配するほどだ。

 

私が事あるごとに、お念仏を称えていると、最初は無視していたものの、しまいには「うるさい!」と言われてしまった。

 

同じ屋根の下で暮らしているが、それまでの宿業が、まるで違うので、私はほとほと困ってしまった。

 

阿弥陀さんは、どうやって私たちにお念仏を届けたのだろうか?

宗祖が、教行証文類を著して、間違いなく理解してもらうにはどうされただろうか?

 

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

お釈迦様の教えは、阿弥陀様が遣わされた方であるし、地球上で現れた唯一の仏様であるわけです。そのお釈迦様を、人が作ったものであるとか、そんな昔のことなんか今役に立たないなどと思っている奥さんがいる。

 

そうかぁ、仏教をそんな風に思っているのか?悲しいではないか。

蓮如様が、この世で宿善のある人とない人を判断するポイントを御文章でこう仰っている。

「仏法を貴く思い、後生を大切と思う人」が、宿善のある人ということです。

御文章のいたるところで、宿善・無宿善を分別されるように言われているのは当然のこと。誰彼構わず無理にすることはできない。また仏法を聞かない人を馬鹿にしたり謗ったら、逆に謗られてしまう。注意しないといけないことなのだ。

 

とかくお念仏を称えつつ、生活していけば、おのずと仲間ができてくる。SNSでお念仏を称えているだけで、イイね!をしてくださる方がおられるのだ。

 

衆生済度に、正覚をかけておられる方がいらっしゃるのです。たまたま少し早かっただけで、時間は永遠なので、まだまだ慌てることはないですが、千載一遇のチャンスといえばこのことです。

 

この行信を、お念仏を獲得するべきです。宗祖のお言葉は大変に重たいです。

信順いたしましょう。

 

南無阿弥陀仏

 

 

お念仏を受け取るのは難しいのか、易しいのか?

合掌

お疲れ様です。

 

日頃から、フェイスブック等で、真宗を学んでいる方のページでコメントさせてもらっているが、信心を得ることは難しい、これ以上難しいことはないとの記事を読ませていただくことも多い。

 

凡夫が、ご信心を得る事の難しさを宗祖も正信偈の中で、「信楽を受持することは、難の中の難、これに過ぎたるものはなし」とおっしゃっているし、経を見ても、難信の法を説くとお釈迦さまも説かれている。

 

では難しいのだろうと、思えばいいのか?

 

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。
 しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし

 

 

総序から、直接貼り付けさせていただいた。

 

本願の名号には、悪を転じて、徳をなす力用(はたらき)があり、それを受け取れば間違いなく往生できると。ですから、これ以上簡単な教えはなく、だれでもできる近道ですよ!とおっしゃっておられます。

 

なぜ難しいと考えがちなのかといえば、先ほどの正信偈のお言葉の前に、邪見驕慢の悪衆生は難しいのであって、つまり衆生側、私たちがどうにかして得ようともがいても得れるものではなく、素直に本願のいわれを聞き受け、お念仏するものにはすでに、お念仏は届いているので、あれこれと悩む必要はないということなのです。

 

凡夫の考え休むに似たりと先哲も教えておられます。

 

六つの字のいわれをよく聞き分け、お念仏を称えることが、一番であります。

 

南無阿弥陀仏

 

いかにして念仏を選ばしめたか?

合掌

 

お疲れ様です。

教行信証の総序で法義の讃嘆中ではあるが、私達の機が、浄業=称名念仏にどうして出会えるのか?

これが最大の不思議である。

そこを観経を引用され、超解釈されておられるのが、まず最初に、お釈迦様を殺そうと企んだ提婆達多を登場させる、そしてさらに父王を殺した阿闍世太子を、そこで観経を聴聞されたイダイケ夫人を登場させ、浄土を願わせた。

悲劇でありながらも、なんとドラマチックであろうか?

中国の天台智顗なども、イダイケは、権化の、菩薩様という解釈であったが、善導大師は、私達と同じ凡夫と解釈されておられるので、善導大師ただお一人、仏の正しい御心を明らかにされたと親鸞様は褒め称えておられるので、イダイケはただの人と受け取ればそれでいいのだと思ったら、いやいやそうじゃないんだと、これまた覆しておられるところが、こちらです。

 

これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。

 

仏様の慈悲は、徹底されておられますね。

そんな者まで救い切ろうとされたから、この観経の超解釈を聞いた時に、歓喜致しました。

 

南無阿弥陀仏

 

ひそかにおもんみれば

合掌

 

お疲れ様です。

宗祖のお書きになった主著である教行信証の今の自分で味わっているところを書こうと、力んでみた。

 

漢文で書かれてあり、読めないし理解しがたいものですが、まさにタイトルにある通り、親鸞様も、真如の世界を、自分の理解は超越しているが、書かずにおれないと、筆を取られておられますので、私も ひそかにおもんみたいと思います。

 

そもそも ひそかにおもんみればとは善導大師の観経疏の玄義分のお言葉のようでした。ひそかにおもんみれば - WikiArcによる。

 

それにしても親鸞様の一言一言が自分勝手に言われたお言葉ではなく、必ず経釈に裏打ちされた言葉であるわけです。

 

次に、

難思の弘誓は難度海を度する大船

無礙の光明は無明の闇を破する慧日なり

 

難度海は、苦海、生死、私達の人生と簡単に思いがちだし、親鸞様はそういう意味でおっしゃっていますが、最初にこの難度海の言葉は、龍樹菩薩のお言葉で、八聖道、聖道門に対して、浄土門は、大船に乗るようなものと言われたことをさらに発展させて、すべての衆生を乗せる船だとおっしゃるのです。

 

難思、無礙は、存覚上人の書かれた「六要抄」によれば、十二光から、韻を踏むように選びとられたものでした。

 

このブログを書く時に、上記の六要抄をさらに解説せられた六要鈔会本 (円爾)の存在を知った。

 

さまざまな教行信証の解説書があるので、ネットを駆使して解読して味わっていきます。

 

無明の闇を破するとは何か?

さとりの境地の反対なのだが、ねこねこ先生瓜生崇 - Google 検索の影響受けてますが、孤独地獄、分別や差別から離れられない私達に、一人じゃないよ、比べる必要ないよと、真如の世界からの呼びかけに目覚めることではないかと思います。

 

もちろん親鸞様は違うと思います。今までは煩悩が苦しみの元だと思っていたが、そんなことではなかった、本願ですでに私達を完全に救う道が成就されていたという歓喜が伝わって参りました。

 

以上が私が今味わっているところです。

 

南無阿弥陀仏

教行信証について

合掌

お疲れ様です。

宮田秀成先生から、浄土真宗の正しい教えは、何を学んだらいいかと問いました。安心論題を学んだら良いのではないかと、おすすめしていただきました。

幸いなことに、ネットにやさしい安心論題のテキストがアップロードされております。

 

某S会では絶対に聞くことができないお念仏のおいわれの話ばかりです。

 

何を思ったのか、それを読ませていただき、我が身においてどのように気づきがあるか確認作業をさせていただき、ブログで公開させていただきました。

 

なんとか最後まで書かせていただきました。ありがとうございました。

 

更に今後はどうするのか?

浅学の身でありながら、どう信心の世界を表現していけばよいか?

 

常にハードルが高い所を目指していき、自分自身で引っかかりがあれば、他の念仏者に尋ねて行けば良いのではないか?という考えになりました。

そこで、宗祖親鸞様の教行信証で、心血を注いて完成された書物の、自らの味わい、見える世界、領解を書いて行こうと思っております。

 

Wikiarcもありますので、できるだけわかりやすく書くつもりでおります。

間違っていたらすぐにコメントくださいませ。

 

南無阿弥陀仏

どうなったのが救われたことなのか?

合掌

お疲れ様です。

宗祖親鸞様が、あきらかになされたことは数多く、現当ニ益が代表的だろう。

 

蓮如様が、自問自答章で、正定と滅度とは一益と心得べきか、ニ益と心得べきかと問うて、ニ益だとおっしゃる。

 

阿弥陀仏の本願の11願、必至滅度の願では、浄土に往生してから正定聚に往って、仏となる修行をすると誓われているのに対しこの世で、仏となる身に定まるのだと断定されたのは、宗祖だけです。

 

マジか〜、仏の一歩前ではないか?往生が定まるというのは、そういうことなのだ。信心定まるというは、往生また定まるなり。

 

無理だ、毎日毎日、三途の業を作り続けているのに成れるはずがない。という疑いがなくなるのが救われたということです。

 

とはいえ、悪に誇ることではなくして、懺悔の心が、起こってくるのです。

 

S会の時は、この心で苦しむ。こんなことでは、救われないのではないか?

いわゆる信罪福心、常識的な心なので、一生助かることはありません。

 

S会の友達から電話がかかり、また、信心決定したのか聞いてきた。

したよと答えても懐疑的で、私はS会がなぜ浄土真宗ではないか、説明した。参考に、飛雲さんの飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~サイトと、故嶋田先生のサイトはじめに・目次 : あなたの白道を紹介したが、

ちゃんと読んでくれることを願ってならない。

 

南無阿弥陀仏