いかにして念仏を選ばしめたか?
合掌
お疲れ様です。
教行信証の総序で法義の讃嘆中ではあるが、私達の機が、浄業=称名念仏にどうして出会えるのか?
これが最大の不思議である。
そこを観経を引用され、超解釈されておられるのが、まず最初に、お釈迦様を殺そうと企んだ提婆達多を登場させる、そしてさらに父王を殺した阿闍世太子を、そこで観経を聴聞されたイダイケ夫人を登場させ、浄土を願わせた。
悲劇でありながらも、なんとドラマチックであろうか?
中国の天台智顗なども、イダイケは、権化の、菩薩様という解釈であったが、善導大師は、私達と同じ凡夫と解釈されておられるので、善導大師ただお一人、仏の正しい御心を明らかにされたと親鸞様は褒め称えておられるので、イダイケはただの人と受け取ればそれでいいのだと思ったら、いやいやそうじゃないんだと、これまた覆しておられるところが、こちらです。
これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。
仏様の慈悲は、徹底されておられますね。
そんな者まで救い切ろうとされたから、この観経の超解釈を聞いた時に、歓喜致しました。