いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

お念仏を受け取るのは難しいのか、易しいのか?

合掌

お疲れ様です。

 

日頃から、フェイスブック等で、真宗を学んでいる方のページでコメントさせてもらっているが、信心を得ることは難しい、これ以上難しいことはないとの記事を読ませていただくことも多い。

 

凡夫が、ご信心を得る事の難しさを宗祖も正信偈の中で、「信楽を受持することは、難の中の難、これに過ぎたるものはなし」とおっしゃっているし、経を見ても、難信の法を説くとお釈迦さまも説かれている。

 

では難しいのだろうと、思えばいいのか?

 

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。
 しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし

 

 

総序から、直接貼り付けさせていただいた。

 

本願の名号には、悪を転じて、徳をなす力用(はたらき)があり、それを受け取れば間違いなく往生できると。ですから、これ以上簡単な教えはなく、だれでもできる近道ですよ!とおっしゃっておられます。

 

なぜ難しいと考えがちなのかといえば、先ほどの正信偈のお言葉の前に、邪見驕慢の悪衆生は難しいのであって、つまり衆生側、私たちがどうにかして得ようともがいても得れるものではなく、素直に本願のいわれを聞き受け、お念仏するものにはすでに、お念仏は届いているので、あれこれと悩む必要はないということなのです。

 

凡夫の考え休むに似たりと先哲も教えておられます。

 

六つの字のいわれをよく聞き分け、お念仏を称えることが、一番であります。

 

南無阿弥陀仏

 

いかにして念仏を選ばしめたか?

合掌

 

お疲れ様です。

教行信証の総序で法義の讃嘆中ではあるが、私達の機が、浄業=称名念仏にどうして出会えるのか?

これが最大の不思議である。

そこを観経を引用され、超解釈されておられるのが、まず最初に、お釈迦様を殺そうと企んだ提婆達多を登場させる、そしてさらに父王を殺した阿闍世太子を、そこで観経を聴聞されたイダイケ夫人を登場させ、浄土を願わせた。

悲劇でありながらも、なんとドラマチックであろうか?

中国の天台智顗なども、イダイケは、権化の、菩薩様という解釈であったが、善導大師は、私達と同じ凡夫と解釈されておられるので、善導大師ただお一人、仏の正しい御心を明らかにされたと親鸞様は褒め称えておられるので、イダイケはただの人と受け取ればそれでいいのだと思ったら、いやいやそうじゃないんだと、これまた覆しておられるところが、こちらです。

 

これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。

 

仏様の慈悲は、徹底されておられますね。

そんな者まで救い切ろうとされたから、この観経の超解釈を聞いた時に、歓喜致しました。

 

南無阿弥陀仏

 

ひそかにおもんみれば

合掌

 

お疲れ様です。

宗祖のお書きになった主著である教行信証の今の自分で味わっているところを書こうと、力んでみた。

 

漢文で書かれてあり、読めないし理解しがたいものですが、まさにタイトルにある通り、親鸞様も、真如の世界を、自分の理解は超越しているが、書かずにおれないと、筆を取られておられますので、私も ひそかにおもんみたいと思います。

 

そもそも ひそかにおもんみればとは善導大師の観経疏の玄義分のお言葉のようでした。ひそかにおもんみれば - WikiArcによる。

 

それにしても親鸞様の一言一言が自分勝手に言われたお言葉ではなく、必ず経釈に裏打ちされた言葉であるわけです。

 

次に、

難思の弘誓は難度海を度する大船

無礙の光明は無明の闇を破する慧日なり

 

難度海は、苦海、生死、私達の人生と簡単に思いがちだし、親鸞様はそういう意味でおっしゃっていますが、最初にこの難度海の言葉は、龍樹菩薩のお言葉で、八聖道、聖道門に対して、浄土門は、大船に乗るようなものと言われたことをさらに発展させて、すべての衆生を乗せる船だとおっしゃるのです。

 

難思、無礙は、存覚上人の書かれた「六要抄」によれば、十二光から、韻を踏むように選びとられたものでした。

 

このブログを書く時に、上記の六要抄をさらに解説せられた六要鈔会本 (円爾)の存在を知った。

 

さまざまな教行信証の解説書があるので、ネットを駆使して解読して味わっていきます。

 

無明の闇を破するとは何か?

さとりの境地の反対なのだが、ねこねこ先生瓜生崇 - Google 検索の影響受けてますが、孤独地獄、分別や差別から離れられない私達に、一人じゃないよ、比べる必要ないよと、真如の世界からの呼びかけに目覚めることではないかと思います。

 

もちろん親鸞様は違うと思います。今までは煩悩が苦しみの元だと思っていたが、そんなことではなかった、本願ですでに私達を完全に救う道が成就されていたという歓喜が伝わって参りました。

 

以上が私が今味わっているところです。

 

南無阿弥陀仏

教行信証について

合掌

お疲れ様です。

宮田秀成先生から、浄土真宗の正しい教えは、何を学んだらいいかと問いました。安心論題を学んだら良いのではないかと、おすすめしていただきました。

幸いなことに、ネットにやさしい安心論題のテキストがアップロードされております。

 

某S会では絶対に聞くことができないお念仏のおいわれの話ばかりです。

 

何を思ったのか、それを読ませていただき、我が身においてどのように気づきがあるか確認作業をさせていただき、ブログで公開させていただきました。

 

なんとか最後まで書かせていただきました。ありがとうございました。

 

更に今後はどうするのか?

浅学の身でありながら、どう信心の世界を表現していけばよいか?

 

常にハードルが高い所を目指していき、自分自身で引っかかりがあれば、他の念仏者に尋ねて行けば良いのではないか?という考えになりました。

そこで、宗祖親鸞様の教行信証で、心血を注いて完成された書物の、自らの味わい、見える世界、領解を書いて行こうと思っております。

 

Wikiarcもありますので、できるだけわかりやすく書くつもりでおります。

間違っていたらすぐにコメントくださいませ。

 

南無阿弥陀仏

どうなったのが救われたことなのか?

合掌

お疲れ様です。

宗祖親鸞様が、あきらかになされたことは数多く、現当ニ益が代表的だろう。

 

蓮如様が、自問自答章で、正定と滅度とは一益と心得べきか、ニ益と心得べきかと問うて、ニ益だとおっしゃる。

 

阿弥陀仏の本願の11願、必至滅度の願では、浄土に往生してから正定聚に往って、仏となる修行をすると誓われているのに対しこの世で、仏となる身に定まるのだと断定されたのは、宗祖だけです。

 

マジか〜、仏の一歩前ではないか?往生が定まるというのは、そういうことなのだ。信心定まるというは、往生また定まるなり。

 

無理だ、毎日毎日、三途の業を作り続けているのに成れるはずがない。という疑いがなくなるのが救われたということです。

 

とはいえ、悪に誇ることではなくして、懺悔の心が、起こってくるのです。

 

S会の時は、この心で苦しむ。こんなことでは、救われないのではないか?

いわゆる信罪福心、常識的な心なので、一生助かることはありません。

 

S会の友達から電話がかかり、また、信心決定したのか聞いてきた。

したよと答えても懐疑的で、私はS会がなぜ浄土真宗ではないか、説明した。参考に、飛雲さんの飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~サイトと、故嶋田先生のサイトはじめに・目次 : あなたの白道を紹介したが、

ちゃんと読んでくれることを願ってならない。

 

南無阿弥陀仏

 

救われたかどうか、臨終までわからないのか?

合掌

お疲れ様です。

今から30余年も前にはじめて聞かされた平生業成について語る日が来るとは思わなかった。

安心論題/平生業生 - WikiArc

 

人間に生まれて、何をなすべきか?人間にしかできない尊い目的がある。人生に決勝点がある。そのほかに道はない!

それを達成すればいつ死んでも悔いはない!→この世で絶対の幸福になること。

 

そのためには、唯一無二の先生から聞かせて頂かなければならない!

 

全て間違いだった。

 

全くキリもない、ゴールのない話を聞かされていた。

 

法話会場で嘆息して、あゝ今日も聞ききれなかった。まぁ死ぬまでには何とかなるだろう。などと自分に言い聞かせていた。法話会場で皆黙ってはいるが、同じ思いに違いない。法悦に浸る人は、以前よりいない。少なくとも私が学生時代には、まだまだ元気で、サポートする講師もいなかった。

 

せっかくの浄土真宗の教えが、T教で地に落ちてしまった。

 

さて今日は、平生業成の義を、御文で明らかにしたい。

 

蓮如上人の『御文章』一帖目第二通に(真聖全三―四〇四)、

当流、親鸞聖人の一義は……この信をえたる位を、『経』(大経の本願成就文)には「即得往生住不退転」ととき、『釈』(論註の意)には「一念発起入正定之聚」ともいえり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。(*)
 同じく一帖目第四通には(真聖全三―四〇六)、

おおよそ当家には一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願の我等をたすけたもうことわりをききひらくことは……仏智他力のさずけによりて本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなわち平生業成の義なり。

決して死ぬまで分からないということはないのです。

平生の一念発起するところの信心にて往生が定まるのです。

 

そこまでは、方便が必要と言われるだろうが、捨てないと死ぬまで助かることはありません。それが廃立の教えです。いつのまにかS会は、真仮をはっきりと説かなくなってしまった。

 

念仏一行の教えを捻じ曲げて、称え心の説明している間は、ダメです。本願に、十念が誓われていることをお礼の念仏のみと理解しては、読み損ないです。18願の行信は、明らかに不回向の因果なので、他力と言われます。

 

つまりは、信前信後関係ない、南無阿弥陀仏の因果が成就したことが行者に現れた姿と味わいます。

 

速やかに方便を離れて、T教から離れて本願を正確に聞くべきです。

 

南無阿弥陀仏

死んだら往生が正解なのか?

合掌

お疲れ様です。

とうとう今年が終わります。年末年始の寒波で、雪が積もっております。

 

今日は、安心論題の即得往生についてです。安心論題/即得往生 - WikiArc

 

即と聞くと、即時、その時という意味しかないと思っておられると思いますが、即には二つ意味があるそうです。

同時即と異時即の意味です。

 

宗祖は、本願を信受した時に、往生が定まるとお示しいただいたわけですが、そのことを我が身において考えてみますと、お前を必ず往生させて仏に生まれさせると誓われた本願になんの文句もなくなり、毎日お念仏を称えているのです。それ以外にありません。

 

某S会にまだ迷っている友達から電話がかかりました。

 

友達H「お前、信心決定したのか?」

私「ご信心いただきました。」

H「毎日念仏止まらないのか」

私「たまにしか称えてないが?」

H「???、、、絶対の幸福になったんだろう?」

私「なんやそれ?(某S会で、耳にタコができるくらい聞かされたが)親鸞様がそんなことはおっしゃっていないからな。Tさんが考えたことだろう」

H「もう、そんな話しは聞きたくない」

私「S会は、浄土真宗じゃないからね。T教を信じてるだけだぞ。」「本願を信じてお念仏を称えておればよいのだ」

 

絶対の幸福と聞くと、とにかく妄想が過ぎるので、やめていただきたいものです。ご信心を得ても、スーパーマンになるかのような誤解をしているというか、私もそうだったから文句は言えない。

 

宗祖は、本願成就文の即得往生を一念で往生させていただける身に救っていただけたことを龍樹菩薩も善導大師もおっしゃっているし、私もそのように領解しますと宣言されておられる。

 

もちろん私自身もそう味わっているのだけど、

何か変わったかと言われたら、凡夫は全く変わらないんです。毎日、三途の業の作り通しなのです。散々S会で聞かされた因果の道理から行けば、往生どころか、地獄行き間違いなしなのです。

 

だからこそ聞くのです。

宗祖は、仏願の生起本末を聞いて疑いなくなったことが、聞くというのだとおっしゃっています。

 

改めて即得往生について考えますと、単に、往生があてになったということでございましょう。往生はあくまでも異時即なのだということを、知らされて参りました。

 

そのことを聞かせていただく道場は、あんなでかい会館は必要ないですし、高いお布施を出す必要はありません。

 

これだけたくさんの念仏者がおられるので、何か組織なり、教団が必要と思うことも人間社会では仕方ないし、あくまでも信仰の拠り所として、寺院はこれからも必要と思う、今日この頃です。

 

また少しでも仏縁を結び、お念仏を称えていただきたいものです。

 

南無阿弥陀仏