いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

教行信証について

合掌

お疲れ様です。

宮田秀成先生から、浄土真宗の正しい教えは、何を学んだらいいかと問いました。安心論題を学んだら良いのではないかと、おすすめしていただきました。

幸いなことに、ネットにやさしい安心論題のテキストがアップロードされております。

 

某S会では絶対に聞くことができないお念仏のおいわれの話ばかりです。

 

何を思ったのか、それを読ませていただき、我が身においてどのように気づきがあるか確認作業をさせていただき、ブログで公開させていただきました。

 

なんとか最後まで書かせていただきました。ありがとうございました。

 

更に今後はどうするのか?

浅学の身でありながら、どう信心の世界を表現していけばよいか?

 

常にハードルが高い所を目指していき、自分自身で引っかかりがあれば、他の念仏者に尋ねて行けば良いのではないか?という考えになりました。

そこで、宗祖親鸞様の教行信証で、心血を注いて完成された書物の、自らの味わい、見える世界、領解を書いて行こうと思っております。

 

Wikiarcもありますので、できるだけわかりやすく書くつもりでおります。

間違っていたらすぐにコメントくださいませ。

 

南無阿弥陀仏

どうなったのが救われたことなのか?

合掌

お疲れ様です。

宗祖親鸞様が、あきらかになされたことは数多く、現当ニ益が代表的だろう。

 

蓮如様が、自問自答章で、正定と滅度とは一益と心得べきか、ニ益と心得べきかと問うて、ニ益だとおっしゃる。

 

阿弥陀仏の本願の11願、必至滅度の願では、浄土に往生してから正定聚に往って、仏となる修行をすると誓われているのに対しこの世で、仏となる身に定まるのだと断定されたのは、宗祖だけです。

 

マジか〜、仏の一歩前ではないか?往生が定まるというのは、そういうことなのだ。信心定まるというは、往生また定まるなり。

 

無理だ、毎日毎日、三途の業を作り続けているのに成れるはずがない。という疑いがなくなるのが救われたということです。

 

とはいえ、悪に誇ることではなくして、懺悔の心が、起こってくるのです。

 

S会の時は、この心で苦しむ。こんなことでは、救われないのではないか?

いわゆる信罪福心、常識的な心なので、一生助かることはありません。

 

S会の友達から電話がかかり、また、信心決定したのか聞いてきた。

したよと答えても懐疑的で、私はS会がなぜ浄土真宗ではないか、説明した。参考に、飛雲さんの飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~サイトと、故嶋田先生のサイトはじめに・目次 : あなたの白道を紹介したが、

ちゃんと読んでくれることを願ってならない。

 

南無阿弥陀仏

 

救われたかどうか、臨終までわからないのか?

合掌

お疲れ様です。

今から30余年も前にはじめて聞かされた平生業成について語る日が来るとは思わなかった。

安心論題/平生業生 - WikiArc

 

人間に生まれて、何をなすべきか?人間にしかできない尊い目的がある。人生に決勝点がある。そのほかに道はない!

それを達成すればいつ死んでも悔いはない!→この世で絶対の幸福になること。

 

そのためには、唯一無二の先生から聞かせて頂かなければならない!

 

全て間違いだった。

 

全くキリもない、ゴールのない話を聞かされていた。

 

法話会場で嘆息して、あゝ今日も聞ききれなかった。まぁ死ぬまでには何とかなるだろう。などと自分に言い聞かせていた。法話会場で皆黙ってはいるが、同じ思いに違いない。法悦に浸る人は、以前よりいない。少なくとも私が学生時代には、まだまだ元気で、サポートする講師もいなかった。

 

せっかくの浄土真宗の教えが、T教で地に落ちてしまった。

 

さて今日は、平生業成の義を、御文で明らかにしたい。

 

蓮如上人の『御文章』一帖目第二通に(真聖全三―四〇四)、

当流、親鸞聖人の一義は……この信をえたる位を、『経』(大経の本願成就文)には「即得往生住不退転」ととき、『釈』(論註の意)には「一念発起入正定之聚」ともいえり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。(*)
 同じく一帖目第四通には(真聖全三―四〇六)、

おおよそ当家には一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願の我等をたすけたもうことわりをききひらくことは……仏智他力のさずけによりて本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなわち平生業成の義なり。

決して死ぬまで分からないということはないのです。

平生の一念発起するところの信心にて往生が定まるのです。

 

そこまでは、方便が必要と言われるだろうが、捨てないと死ぬまで助かることはありません。それが廃立の教えです。いつのまにかS会は、真仮をはっきりと説かなくなってしまった。

 

念仏一行の教えを捻じ曲げて、称え心の説明している間は、ダメです。本願に、十念が誓われていることをお礼の念仏のみと理解しては、読み損ないです。18願の行信は、明らかに不回向の因果なので、他力と言われます。

 

つまりは、信前信後関係ない、南無阿弥陀仏の因果が成就したことが行者に現れた姿と味わいます。

 

速やかに方便を離れて、T教から離れて本願を正確に聞くべきです。

 

南無阿弥陀仏

死んだら往生が正解なのか?

合掌

お疲れ様です。

とうとう今年が終わります。年末年始の寒波で、雪が積もっております。

 

今日は、安心論題の即得往生についてです。安心論題/即得往生 - WikiArc

 

即と聞くと、即時、その時という意味しかないと思っておられると思いますが、即には二つ意味があるそうです。

同時即と異時即の意味です。

 

宗祖は、本願を信受した時に、往生が定まるとお示しいただいたわけですが、そのことを我が身において考えてみますと、お前を必ず往生させて仏に生まれさせると誓われた本願になんの文句もなくなり、毎日お念仏を称えているのです。それ以外にありません。

 

某S会にまだ迷っている友達から電話がかかりました。

 

友達H「お前、信心決定したのか?」

私「ご信心いただきました。」

H「毎日念仏止まらないのか」

私「たまにしか称えてないが?」

H「???、、、絶対の幸福になったんだろう?」

私「なんやそれ?(某S会で、耳にタコができるくらい聞かされたが)親鸞様がそんなことはおっしゃっていないからな。Tさんが考えたことだろう」

H「もう、そんな話しは聞きたくない」

私「S会は、浄土真宗じゃないからね。T教を信じてるだけだぞ。」「本願を信じてお念仏を称えておればよいのだ」

 

絶対の幸福と聞くと、とにかく妄想が過ぎるので、やめていただきたいものです。ご信心を得ても、スーパーマンになるかのような誤解をしているというか、私もそうだったから文句は言えない。

 

宗祖は、本願成就文の即得往生を一念で往生させていただける身に救っていただけたことを龍樹菩薩も善導大師もおっしゃっているし、私もそのように領解しますと宣言されておられる。

 

もちろん私自身もそう味わっているのだけど、

何か変わったかと言われたら、凡夫は全く変わらないんです。毎日、三途の業の作り通しなのです。散々S会で聞かされた因果の道理から行けば、往生どころか、地獄行き間違いなしなのです。

 

だからこそ聞くのです。

宗祖は、仏願の生起本末を聞いて疑いなくなったことが、聞くというのだとおっしゃっています。

 

改めて即得往生について考えますと、単に、往生があてになったということでございましょう。往生はあくまでも異時即なのだということを、知らされて参りました。

 

そのことを聞かせていただく道場は、あんなでかい会館は必要ないですし、高いお布施を出す必要はありません。

 

これだけたくさんの念仏者がおられるので、何か組織なり、教団が必要と思うことも人間社会では仕方ないし、あくまでも信仰の拠り所として、寺院はこれからも必要と思う、今日この頃です。

 

また少しでも仏縁を結び、お念仏を称えていただきたいものです。

 

南無阿弥陀仏

 

信心が先か、お念仏が先か?

合掌

 

お疲れ様です。

世間は、コロナの影響で、人間に都合悪くなっているが、真宗は、証道今盛んなりで次々と念仏者が現れている。

 

さまざまなご縁で、お念仏を喜ぶようになる。安心論題/称名報恩 - WikiArc

 

今回の論題も、宗祖によって、龍樹菩薩様が明らかにされたことを、正信偈

弥陀仏の本願を憶念すれば 自然に即のとき必定に入る

唯よく常に如来の号を称して 大悲弘誓の恩を報ずべし

と説かれました。

 

本願に、往生の因として三心と十念が誓われていますが、どちらが先とは説かれていないが、称名報恩は、信後の行者の相です。

 

なぜなら、信前には、必ず自分の称名に功を求めるからです。

と言いながらも深く本願を信じて称えることは、どの真宗の先生もお勧めしてくださるのです。

 

称名報恩は、信後の行業ではあるけれども、お念仏のない真宗はありません。

 

またご法話の後には、恩徳讃を謳わせていただきます。

 

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も 骨を砕いても謝すべし

 

某S会で、30余年間歌ってきたが、間違った教えのためにこの歌詞に込められた宗祖の思いが判ることはなかった。

正座して聴聞することが当たり前だったので、痺れた足をさすりながら、今日も聴ききれなかったと唇を噛んでいた。

 

このブログは、お念仏に目覚めて行く人が多少なりとも現れればいいという思いで書いている。

本願をそのまま伝えてくださる方ならどなたでもよいのです。

 

タイトルでの回答ですが、どちらが先ということはありません。お念仏の信心なので、口から出るお念仏を自分の耳で聞く、その中にこそ疑いなく往生できるという信心が、生まれてくるのです。

 

間違いなく伝えてくださった方々に感謝するしかありません。

 

一盲、衆盲を率いて、火坑に堕する(釈尊) そんな悲劇にならないように、正しく伝えて下さる方からお聞きしないと、万劫にも、人間に生まれることはできない。

 

これこそ一大事です。驚き、求めていただきたいものです。

 

南無阿弥陀仏

 

 

お念仏称えなければならないの?

合掌

お疲れ様です。安心論題の必具名号

安心論題/必具名号 - WikiArc

であります。この論題は、信一念の時に称名も同時だとする、宗義に反する問題を考察することだが、タイトルにあるように、親鸞様が、真実信心には、必ず名号を具するとおっしゃる問題を考えたい。

 

称えていても救われないということが、前出で、示したことだが、本願にはお念仏を称えることが誓われている。

 

至心に信楽して我国に生まれんと欲うて、乃ち十念するに至らん

 

親鸞様は、教行信証の信巻 三心釈の結釈において、三心は、信楽、信心におさまること、疑いのなくなった心が信心だと結論し、さらには真実の信心は、必ず名号、称名相続がありますが、ただ称名しているのは、真実信心ではありませんよと、戒めておられるのです。

 

唯信正因、唯信独逹の宗義なのですが、前出のブログで申し上げたように、名号をもって救おうとなさったのですから、南無阿弥陀仏が付いて回るのです。

 

信前信後関係なく、お念仏で助かるのですから、お念仏を称えるべきなのであります。

 

ただ親鸞様は、お手紙の中でもお念仏を称えていても、信心なければ救われないとも書いておられます。

 

信心ありとも、名号をとなえざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなうとも、信心あさくば往生しがたくそうろう。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなえんずるは、うたがいなき報土の往生にてあるべくそうろうなり。

(末灯抄)

 

念仏往生とは、ひたすら本願を信じて念仏申すことと味わいます。

 

元は、法蔵様の願心であります。名号に全徳を込められたのでありますから、それをいただくと、心も口も体も南無阿弥陀仏になるのです。

 

ですからもう義務ではありません。こちらの行でもなくなります。報恩と言いますか、もう諸仏の仕事をしていかなければ、もったいないのです。

 

諸仏の仕事というのは、お念仏を称えることです。人に勧めることです。それだけです。こちらがすることは、それだけですが、お念仏を称えるだけでは救われないのです。いよいよ難信になってきましたね。

 

南無阿弥陀仏

お念仏称えたら助かるのですか?

合掌

 

お疲れ様です。

苦しみました。真宗のご宗義について、念仏為本とはどうなのか?

称名正因とは違うのか??安心論題/念仏為本 - WikiArc

 

この問題は、意外と難しい問題です。

何しろ、法蔵様が、愚かな我らのために決めて下さった  であったからです。

 

ところが、願成就にはなんて書いてある?

 

その名号を聞いて!と説いてある。 称えて、あるいはこちらがなんかしてとは説いておられないのですよ。

 

何を聞くか? 17願成就で、讃嘆するところの名号、南無阿弥陀仏ですよ。

 

それに、はい、仰せの通り信じますとなったのが、念仏の信心です。

 

「至心信楽欲生我国」は名号を私の心にいただいたすがたで、これが信心です。「乃至十念」は心にいただいた名号が私の口業にあらわれ出たすがたで、これが称名であります。この信心も称名も共に如来の名号が私の上に届いたすがたにほかなりません。したがって、如来の名号をいただいたすがたは、信心でも称名でも語られます。

 

わかりやすいことなのですが、私が本願の疑いが滅尽したときに思ったことは、お念仏に救われたと思いました。

これは完全な個人の領解なので、あまり参考にはなりません。

難しいが引用します。

 

法然上人は信を具した称名行で往生を得ると仰せられたのを承けて、宗祖聖人は行から信を別開せられ、名号が業因であり、信心が正因である旨を明らかにされたのです。これによって、法然上人の仰せられる「称えて往生」は、私の称えるという行いに功を認めるような自力の念仏ではなくて、名号業因をいただいて往生という意味であると、念仏往生義の正しい意味を誤ることのないようにせられたのが宗祖の釈義であるといえましょう。

 

だから、念仏を称えたら助かるのではなく、念仏を称えたら助かると信じた信心で助かるのです。

 

これは間違います。

 

南無阿弥陀仏