忠臣は二君に仕えず
合掌
一心とはなんだろう?
天親菩薩の「浄土論」の冒頭に、
「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。」
と著されておられる。
心コロコロの、変り通しで、止まらず、相続しないはずなのに、なぜ心が変わらないのだろう。
善道大師は、三忍と説いた。
親鸞会の友達から連絡があり、彼こそ私を会に引き入れた人間なのだが、開口一番、「お前やめたのか?」、私「あぁ、やめたよ」
友「本部長なんか言ってたか」
私「『これから聞いていきますか?』『聞いていきます』」
友「そうか?やめなくてもよかったのではいか?」
私「やめたいからやめたのだ」
友「残念だな、体に気をつけて、親鸞会やめたら、謗法罪だから、気をつけて」
私もそう信じていたからなぁ。
一刻も早く本当の真宗の教えを聞いて、ご信心獲てもらいたいと切に願う。
石川と福井と少し離れているので、すぐに行って伝えられない。
地理的な距離より、心が遠くへ来てしまったようだ。
主上臣下、怒りをなし、仇を結ぶ。
合掌
お疲れ様です。
怒りの心で相手を切り刻む。絶対やってはいけないことなのだ。と分かっているが、煩悩具足の凡夫だから、どうしてもやってしまう。
昨日、親鸞会の退会をさせていただいた。地元の会館に出向き、北陸の責任者の前にでて、親鸞会を退会させていただきます。と頭を下げてきた。
もう聞かないということですか?と聞いてきた。浄土真宗の教えは今後ともお聴聞していくが、もう親鸞会の話しは聞きたくないのだが、それを言ってしまうと収まるものも収まらないと思い、これからも聞いていきます。と言ってしまった。
どなたから聞いていますか?と聞かれたので、嶋田久義先生の あなたの白道を差し出した。そのあと 宮田先生の安心問答などを例にあげて、親鸞会の教えは間違いだと伝えていることを言ってみた。
みな根拠を出して破れますと自信満々に言ったあと、あなたは、高森先生より宮田さんを信じるということですね、と聞いてきたので、まぁ信じると言いますか、ご信心いただきましたので、誰かを信じるということはありませんが?と言ってみた。よくわからないみたいな顔をしていたが、あなた方の言ってることはわかりますと、宿善に関しては今、ご説法でお話しいただいておりますと。親鸞会の宿善論はよくわかっているつもりだ。
宿善とは、なんぞや?蓮如様は、いずれの経釈によるとも、宿善に限れりとみえたり、宿善まかせとおっしゃる。善をしないといけないんやと誤解されるようなことを何回も書かれるだろうか?
宿善=仏縁=阿弥陀様のおはたらき、つまり他力。自力の入る余地などない。阿弥陀様は念仏すすめておられないとかいう論争もいずこかでおきているようだが、仏教は、廃悪修善の教え。
そのあと廃立の教え。ここからが難関です。
私自身の実感としては、念仏で助かったと思っているが、みなどうだろうか?
不果遂者の誓いではないか?善といえば善なのだが、方向が違うのだ。
私は親鸞会をやめるのは3回目です。そう告白すると親鸞会の講師は、ちゃんと聞けてなかったのですねと言ってきた。私は、真剣に聞いてきたつもりだったのだが、怒りを返してはならんと思い、グッと堪えて、どうもそのようですね。聞けてなかったということですね、と返答しました。
一矢も報えず、支部長が渋々、本尊を受け取り、一礼して会館を後にした。
何か晴れやかな心になったが、みんな悪いわけじゃない、なんとか皆大悲に出会ってもらいたい。
つくべき縁もあれば離れる縁もある
合掌
お疲れ様です。
世界の光 親鸞聖人 のアニメ映画の中で、自分の説を曲げず、師匠である親鸞聖人から、お前は強情だからダメだ!と切り捨てられ、怒って聖人の元からでていく信楽房の姿にテロップがでて、闇に向かう信楽房と書いてあった。
本日をもって親鸞会を退会させていただきます。
私は闇に向かうのであろうか?親鸞聖人からでていくのは確かにもったいない人であろうが、お聖教の通りで阿弥陀仏の本願は、誰に教えを受けても、主役は阿弥陀様です。どこに行こうがいいと私は思っている。
唯一無二と信じていたところが間違いでした。尊いお話しをしてくださる先生はたくさんおられました。
まさか無料でYouTubeのご法話が聞ける時代が来るとは、すごいことだ。
まさか地球の裏側から質疑応答できるとは、お釈迦様でも知らぬ仏のなんとかでしょう。
同じネット上の同行が、最安値で信心得られないかと書いてありましたが、若干の通信費を払えば、不審がなくなるのです。
称えやすの名号や、取りやすの安心やと蓮如様が書かれたことはこのことか!
仏の方より往生は治定せしめたもう。我が身に起こるとは知りませんでしたー!
どんな偉い方が来られようが、信疑決判が終わっておりますので大丈夫です。
座談会
合掌
先日は、お聴聞させていただいた内容を、そのまま書かせていただいたと思っていたが、あまりにも乱筆乱文すぎたと反省している。
ブログは、以前断念している。愚痴ばかりになってしまい、前に向かう力がなくなってしまったからだ。
今回こそ、前進していきたい。
さて座談会の様子ですが先生は、まだまだ言い足りないところがあったようで、熱い思いを語っていただいた。
その時に紹介されたのは、親鸞聖人のお手紙という書物、関東の同行に繰り返し繰り返し、返信なさっておられるご様子を紹介したあと、現在の本願寺教団で、後生の一大事をどのように伝えているか?関東の同行が、関東から、1ヶ月以上かけて京都に馳せ参じておられる。それはなぜなのか?
一大事ということが、極楽に行くことなら、はたして命がけで聖人に会いに行こうとされるだろうか?
お念仏いただいたら、正定聚です。微塵のかけらも自力のない人ですよ。念仏称えたら化土へ生まれるなら、教行証です。教行信証の信があるのはなんでや?念仏励めども仏の願いを疑っている、ムダや!邪見憍慢の悪衆生なんや。18願をよく見てみると至心信楽欲生、皆いただく、仏のはたらき、これを他力という。念仏は、仏恩報謝の念仏なんや。
救われた時、歎異抄では、念仏申さんと思いたつこころのおこるとき信心定まるとおっしゃっている。
かの西田幾多郎先生が、このことを「善の研究」という著作で、純粋体験だと言われている。何が私を動かした、ああそうやったかー!という信心。仏のまことに気づかせてもらうということや!
そのあとやっと質問がでた。お聴聞されている方は、ご信心えた方ばかりではないのか、
言葉は、わかるのですが、心にその通りと届かないというか、はっきりしないのです。どう聞いたらいいのでしょうか?と。
それに対して、小澤先生は、滋賀県のお婆さんの手紙を紹介していただけました。
長年法座にお参りされ、熱心に聴聞されていました。ところがお説教が終わるといつも「話はわかるがお慈悲がわかりません」と嘆かれます。そのお婆さんから晩秋のある日ハガキが届きました。「先生、わからんでええのやとやっと気付かせてもらいました。聞かせていただいて、わかったと喜んでいたらえらいとこに行かんならんことでした。わかったことはただ一つ底抜けのアホは私でした。なんまんだぶつ!」最後の手紙をいただいて数日後穏やかに息を引き取られたとの知らせが届きました。
頭でどれだけ分かってもあかんのや。わからんものやとわからせてもらえる、不思議な世界、つづけて聴かせていただきましょう。
令和元年11月24日(日)鯖江、本法寺 ご法話
合掌
先日の日曜日、世間のヒマを欠きて聞法にお参りさせていただいたお話をさせていただきます。
小澤顕彰先生のご法話です。この先生を尊く思うことは、後生の一大事とはどういうことなのか?なぜ生きるのか?どうして仏法を聞かなければならないかということを教えてくださるからです。
真宗の多くは、法を喜ぶご法話ばかりが目立ちます。死後の地獄を説かずして、またこの世の無常を説かずして菩提心は起こるはずもありません。
また真宗は修行がいらないということで、罪悪感に対しても寛容なのではないかと思われています。
先生のお話は、当然ですが、南無阿弥陀仏がなぜ起こされたのかというお話しから、私がどのようなものか、阿弥陀様がどれほどご苦労されているか、どのようにして私に届けていただいたのか?ということを説かれておられます。
ご縁がありましたらぜひお聴聞させて頂いて欲しいとは思います。
さてご説法の内容ですが、維摩経のお話からでした。唯一お釈迦様の教団に属しておられないのですが、大変賢明なお方で、お釈迦様の説法第一のお弟子の富楼那尊者に法話を説かれる者の心構えを諭されておられます。話すものは、自分のありのままの私をさらけ出す必要があることと、聞いている人が聞きたい話をして心をつかんでいるかよく理解する必要があるということでした。
そして浄土真宗は他力の教えですが、話す内容は、お取り次ぎと言われています。聞法にお参りされたのはご自分で聞きたいと思ってこられていると思ったら違うのです。阿弥陀様が、私たちに届けたいと願っておられるご信心を話すものも聞くものも阿弥陀様から、取り次いでいただいているということです。
私たちは、やがて死んで行きます。人生100年になったところで必ず終わりがあります。蓮如様の御文に、白骨の御文がありますが、あわれというもなかなかおろかなりと説かれておられます。必ず白骨になるのになんで生きているのでしょうか?死んだらしまいやと思っていても、大無量寿経に、命終わる時、後悔と恐れが起こってくると説かれています。何をやっても空っぽの地獄です。肉体という形を失っても何が残るのでしょうか?心が残ると説かれています。死ぬとどこへ行くと説かれているかといえば、後生は一大事だと説かれています。良いところに行くのでしょうか、悪いところに行くのでしょうか?
地獄とはどんな世界でしょうか?往生要集に、地獄が説かれています。極楽の様子も描いたものもあります。同じ形をしていますが、形を失っても残るものが心です。悪い心なら地獄、良い心なら極楽、仏に生まれることができると説かれています。生きている間に心をきれいにする必要があります。八正道、仏になる道を実践する必要があります。しかしながら完成される人は少ない、あるいはできないし、今は末法です。仏になる道は残ってないのです。良いことのできない私たちに代わり、菩薩となって願いを起こし成就して阿弥陀仏となられました。山ほど罪を犯してきても形がありませんが形を失ってはじめて私の前に現れます。はたらきとなって私を苦しませるのです。真っ黒な世界に生まれる、真っ黒なものを全部引き受けて白い世界に生まれさせてやろうと、そのおはたらきのなかで、この話をさせていただいている。人間の思考の世界ではない、形で表せないのです。
真っ黒な世界から、安養の世界に生まれさせると呼んでくださっている南無阿弥陀仏と聞いてください。
極重の悪人、邪見憍慢の悪衆生、仏がそうおっしゃっていることを間違いないと聞く。落ちるんやで!仏は、助けてやりたい一心です。癌で言えばステージ4か5や。難治の三病で、恩を仇で返すようなものである、もっと悪いのは願いを疑うこと、そして無善根、自分さえ良ければよいと思っている根性。全ての仏が逃げた者を見てほっとけないという仏になられた阿弥陀仏。
そして常住の世界に帰らせてもらうんやということ。
以上聞かせていただきました。
あとは座談会がありました。また書かせていただきます。
どうしたら?
合掌
本日は晴天なり。
昨日は満月を拝して、今日は、無量の日光に照らされております。
私が他力に生かされていたのは最近のことなのか、一念があったのかさえわからない。もしかして寝ている間なのか?
仏願の生起本末を聞かせていただいていて、以前はどうしたらいいのかわからない、どう聞けばよいのか?と苦しんでいましたが、ふっと南無阿弥陀仏を称えてからは、どうしたらという力みがなくなっていました。
そして先生から、なにか不満がありますか?と聞かれて、言いたいことを言おうと思って、いろいろ考えたが全く浮かばなかった。
あれ?どこに行ったんだろう?あれほど悩ませていた、私は一番の問題児だと思っていたのに、親鸞会の教えがこびりつき離れなかったのに。
そういえば最近、TENさんの「大悲にふれて」をむさぼるように読んだことも影響あるのかな。
http://midanoganshin.blog.fc2.com
なんだかんだ、親鸞会がご縁で親鸞聖人の話しを聞かせてもらったんだなぁ、全く反対方向でもなかったと思っています。被害者の方々がたくさんおられるので大きな声では言えないが。
今まで肩に力が入っていて、なんとかこれでもかとなっていて、法友からも、「ちょっと落ち着きませんか」「肩の力を抜いてみませんか」と言われる始末。
自分が、自分が!と親鸞会の時と同じような感覚で求めていた。
「大悲にふれて」で正しい聴聞の仕方を読んで、今までの間違いに気づきました。ほんとにTENさん、ありがとうございました。あそこまでわかりやすくなっていないとわからなかったかもです。
久保先生の「ゼロからわかる浄土真宗」は、先ほど読み返してみると、最後の方にも重要なQ&Aもかなりの長文で読み応えがありましたし、様々な誤解や、間違いについても詳しく書いてあり、真宗の正しいご信心を求める方には必読だと思います。
http://amidabuddha18.com/qanda1/
すべてにおいて阿弥陀仏のおはたらきだったのだと思っております。