いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

令和元年11月24日(日)鯖江、本法寺 ご法話

合掌
先日の日曜日、世間のヒマを欠きて聞法にお参りさせていただいたお話をさせていただきます。

小澤顕彰先生のご法話です。この先生を尊く思うことは、後生の一大事とはどういうことなのか?なぜ生きるのか?どうして仏法を聞かなければならないかということを教えてくださるからです。

真宗の多くは、法を喜ぶご法話ばかりが目立ちます。死後の地獄を説かずして、またこの世の無常を説かずして菩提心は起こるはずもありません。

また真宗は修行がいらないということで、罪悪感に対しても寛容なのではないかと思われています。

先生のお話は、当然ですが、南無阿弥陀仏がなぜ起こされたのかというお話しから、私がどのようなものか、阿弥陀様がどれほどご苦労されているか、どのようにして私に届けていただいたのか?ということを説かれておられます。

ご縁がありましたらぜひお聴聞させて頂いて欲しいとは思います。

さてご説法の内容ですが、維摩経のお話からでした。唯一お釈迦様の教団に属しておられないのですが、大変賢明なお方で、お釈迦様の説法第一のお弟子の富楼那尊者に法話を説かれる者の心構えを諭されておられます。話すものは、自分のありのままの私をさらけ出す必要があることと、聞いている人が聞きたい話をして心をつかんでいるかよく理解する必要があるということでした。

そして浄土真宗は他力の教えですが、話す内容は、お取り次ぎと言われています。聞法にお参りされたのはご自分で聞きたいと思ってこられていると思ったら違うのです。阿弥陀様が、私たちに届けたいと願っておられるご信心を話すものも聞くものも阿弥陀様から、取り次いでいただいているということです。

私たちは、やがて死んで行きます。人生100年になったところで必ず終わりがあります。蓮如様の御文に、白骨の御文がありますが、あわれというもなかなかおろかなりと説かれておられます。必ず白骨になるのになんで生きているのでしょうか?死んだらしまいやと思っていても、大無量寿経に、命終わる時、後悔と恐れが起こってくると説かれています。何をやっても空っぽの地獄です。肉体という形を失っても何が残るのでしょうか?心が残ると説かれています。死ぬとどこへ行くと説かれているかといえば、後生は一大事だと説かれています。良いところに行くのでしょうか、悪いところに行くのでしょうか?

地獄とはどんな世界でしょうか?往生要集に、地獄が説かれています。極楽の様子も描いたものもあります。同じ形をしていますが、形を失っても残るものが心です。悪い心なら地獄、良い心なら極楽、仏に生まれることができると説かれています。生きている間に心をきれいにする必要があります。八正道、仏になる道を実践する必要があります。しかしながら完成される人は少ない、あるいはできないし、今は末法です。仏になる道は残ってないのです。良いことのできない私たちに代わり、菩薩となって願いを起こし成就して阿弥陀仏となられました。山ほど罪を犯してきても形がありませんが形を失ってはじめて私の前に現れます。はたらきとなって私を苦しませるのです。真っ黒な世界に生まれる、真っ黒なものを全部引き受けて白い世界に生まれさせてやろうと、そのおはたらきのなかで、この話をさせていただいている。人間の思考の世界ではない、形で表せないのです。

真っ黒な世界から、安養の世界に生まれさせると呼んでくださっている南無阿弥陀仏と聞いてください。
極重の悪人、邪見憍慢の悪衆生、仏がそうおっしゃっていることを間違いないと聞く。落ちるんやで!仏は、助けてやりたい一心です。癌で言えばステージ4か5や。難治の三病で、恩を仇で返すようなものである、もっと悪いのは願いを疑うこと、そして無善根、自分さえ良ければよいと思っている根性。全ての仏が逃げた者を見てほっとけないという仏になられた阿弥陀仏

そして常住の世界に帰らせてもらうんやということ。

以上聞かせていただきました。
あとは座談会がありました。また書かせていただきます。

南無阿弥陀仏