いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

座談会

合掌

先日は、お聴聞させていただいた内容を、そのまま書かせていただいたと思っていたが、あまりにも乱筆乱文すぎたと反省している。

ブログは、以前断念している。愚痴ばかりになってしまい、前に向かう力がなくなってしまったからだ。

今回こそ、前進していきたい。

さて座談会の様子ですが先生は、まだまだ言い足りないところがあったようで、熱い思いを語っていただいた。

その時に紹介されたのは、親鸞聖人のお手紙という書物、関東の同行に繰り返し繰り返し、返信なさっておられるご様子を紹介したあと、現在の本願寺教団で、後生の一大事をどのように伝えているか?関東の同行が、関東から、1ヶ月以上かけて京都に馳せ参じておられる。それはなぜなのか?

一大事ということが、極楽に行くことなら、はたして命がけで聖人に会いに行こうとされるだろうか?

お念仏いただいたら、正定聚です。微塵のかけらも自力のない人ですよ。念仏称えたら化土へ生まれるなら、教行証です。教行信証の信があるのはなんでや?念仏励めども仏の願いを疑っている、ムダや!邪見憍慢の悪衆生なんや。18願をよく見てみると至心信楽欲生、皆いただく、仏のはたらき、これを他力という。念仏は、仏恩報謝の念仏なんや。

救われた時、歎異抄では、念仏申さんと思いたつこころのおこるとき信心定まるとおっしゃっている。

かの西田幾多郎先生が、このことを「善の研究」という著作で、純粋体験だと言われている。何が私を動かした、ああそうやったかー!という信心。仏のまことに気づかせてもらうということや!

そのあとやっと質問がでた。お聴聞されている方は、ご信心えた方ばかりではないのか、

言葉は、わかるのですが、心にその通りと届かないというか、はっきりしないのです。どう聞いたらいいのでしょうか?と。

それに対して、小澤先生は、滋賀県のお婆さんの手紙を紹介していただけました。

長年法座にお参りされ、熱心に聴聞されていました。ところがお説教が終わるといつも「話はわかるがお慈悲がわかりません」と嘆かれます。そのお婆さんから晩秋のある日ハガキが届きました。「先生、わからんでええのやとやっと気付かせてもらいました。聞かせていただいて、わかったと喜んでいたらえらいとこに行かんならんことでした。わかったことはただ一つ底抜けのアホは私でした。なんまんだぶつ!」最後の手紙をいただいて数日後穏やかに息を引き取られたとの知らせが届きました。

頭でどれだけ分かってもあかんのや。わからんものやとわからせてもらえる、不思議な世界、つづけて聴かせていただきましょう。

南無阿弥陀仏