いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

令和元年12月14日(土)福井東別院にて

合掌
近所の母の知り合いで、私が真宗の教えに興味があることを知っておられる方が、私がたまたまお休みだったので、どなたのご説法か知らずにお誘いに一緒にお参りさせていただきましょうということで2週間も前から決められていたお聴聞です。

ですから私が求めたものでもないし、第一どんな人が来られるかも知らない。浄土真宗法話案内にも掲載されていない行事なのでした。

母の知り合いの方には、熱心にお勧めいただきました。土井紀明先生のご著書 「仏に遇うまで」を手渡しながら、これから来られる方の本ですと紹介された。パラパラ見ると1945年生まれと書いてあったので、74歳か、私より20年も長く生きておられる方なのかと感じました。それに元々お寺の方ではなかったと書いてありました。

研修室のお仏壇の前にある机の一番前に座った。程なくして30人くらいの方が来られた。中には故嶋田久義先生の奥様、嶋田幸美さんも来られてました。

恒例の行事らしく20年も続いていると後から聞いて知った。

さてご法話の内容ですが、大無量寿経の五悪段の三つ目の邪婬についてのお話し。常例ご布教なので、前回の続きから。wikiarcから、現代語訳を引用します。


  「 第三の悪とは次のようである。世間の人々は、みな寄り集って同じ世界の中に住んでいるが、その生きている年月はそれほど長くはない。しかしその短い生涯の中にも、上は賢いものや力のあるもの、また身分の高いものや裕福なものなど、下は貧しいものや身分の低いもの、また力のないものや愚かなものなどに分かれる。そしてそのどちらの中にも、善くないものがいるのである。

 そのものはいつもよこしまな思いをいだき、みだらなことばかり考えて、悶々と思い悩み、愛欲の心が入り乱れて、何をしていても安まることがない。そしてあくまで執念深く、みだらな思いをとげようとばかりする。きれいな人を見ては流し目を使ってみだらな振舞いをし、自分の妻をうとましく思ってひそかに他の女性のところに出入りする。そのために家財を使いはたして、ついには法を犯すようになるのである。

 あるものは徒党を組んで互いに争い、相手をおどかし攻め殺してまで、欲しいものを強奪するという非道な行いに及ぶ。あるものは他人の財産に目をつけ、自分の仕事をおこたり、それを盗んで少しでも得られると、欲にかられて一層大きな悪事をはたらくようになり、ついには、びくびくしながらも他人をおどして財産を奪い取り、それによって妻子を養い、手当たり次第にみだらな楽しみをむさぼる。ときには親族に対してさえも、年の上下に関係なく礼儀を乱して、家族や親類などがそのために憂え苦しむのである。

 このような人々も法令で禁じていることを恐れないものであるが、こういう悪は人にも鬼神にも知られ、太陽や月の光も照らし出し、天地の神も記録している。このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第三の大悪、第三の痛、第三の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。

 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないようにと努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第三の大善というのである 」

二千年以上前のインドの話しだが、人間って全く変わらないことを感じさせる。

細かいところは説明しない。私が要点と感じたところを書きます。
お念仏いただいたらどんな生活を送っていけば良いか、親鸞様のお手紙に「世を厭うしるし」と書かれた。世間に背を向けるのではなく、世間の悪になじまないように、悪世により親しまないようにしようと言うこと、欲望のままではなく、浄土の光に反射させていくということ。
 月を仰ぐと顔も明るくなるように、阿弥陀様からの光を映し出していく生活になりなさいと言われてました。

そのあと様々な罪を犯して堕ちていく地獄のことや、在家の者と、修行僧では罪の重さが違うとか、愛欲、性欲強い者は、念仏を称えなさいと法然聖人が言われたことなどを説いて、休憩。

五欲の説明から始められた。五欲の中で強いのは財貪と婬貪で人間が他の動物と違うのは、性欲を貪るという点、知性を持ったためにどうすればより快感を得られるかという人間の姿に対して、仏智によって、凡智を変換させていきましょうと述べられた。

それから本日の話しの要に突入します。信心が起こる順序は
本願のいわれを聞く(教)→念仏申す(行)→信心が因→証(果)
仏の慈悲とは、光明(教)と名号(行)が合わさって信心になると。
ところがこの頃は教だけ、本願力のことを聞くだけでご信心いただけるのだということを言うものもいるらしいが、私は、お念仏でと思います。

教えから信心という根拠として観無量寿経の散善の中の下品中生の人で、善知識のご説法を聞き往生しているではないかと主張する。
しかしこれは修行僧に言われたことではないか?
次の下品下生の人とは、正信偈に書かれてある通り「極重悪人唯称仏」下下品の身が私、そのまま受け取ればよい。南無阿弥陀仏と耳で聞いたのを口から南無阿弥陀仏と称える。その逆、口で南無阿弥陀仏を称えたのを耳で聞く。どちらでもよいが、自分のはからい、思議は入らないのです。
大経では「聞其名号」聞名 これが信心。
観無量寿経では、称名で信心なのか、本願力を聞くだけで救われていくのか?
最後に源信和讃の紹介をされた。

極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとえに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまう

念仏申すしかないのです。

南無阿弥陀仏