いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

浄土真宗の行とはなにか?

お疲れ様です。

 

浄土真宗において、願行具足の南無阿弥陀仏以外に必要なものはない!

とはいえ、実際に日暮させていただいていると、なぜか誰かに伝えたいなどと、浅学の身でありながら思うのです。世間においては、仕事に励み、私も一応、店長としてお店を預からさせていただいて毎日重圧を感じている。家族も奥さんは、思いがけなく骨折して仕事を休んでいる日々、娘はお腹にやっとできた子供を宿している、息子は何やら病気で、仕事を休みがちで、新型コロナで、県独自の緊急事態宣言ということで、在宅ワークを余儀なくされている状況で、まさに難度の海に沈没しているんですが、私は心は浄土に遊ぶなり、このようなブログにありたけの思いをぶつけるのです。

 

教行信証も行の巻に入り、一挙に難しくなったので、1か月以上もブログを休んでしまった。その間何もしてなかったということはない、様々な書を読み、注釈版 浄土真宗聖典 第二版も購入し、勤行もしてなかったので、浄土真宗本願寺派 日常勤行聖典のCDと本を購入し、お勤めも励んでいる。例の赤沼氏の教行信証の証の巻まで読み進めたのだ、何か結論のようなものが出てもよさそうではないか?

 

大行とは、無碍光如来の御名を称するなり これが浄土真宗の正しい行だとおっしゃるのです。

 

私たちの行為については、実感としては何も役に立ってはいない。いくらお念仏を称えても、いくら勤行しても、何に役立つというのか?

 

 

 

 

あゝこれが、非行非善と言われたことなのか!

 

大行と言われた場合、私の行でありながら、主体は如来、諸仏なのです。十劫も昔にすでに成就されたところの名号を諸仏方、お釈迦様も含めて、そのお名前を称賛し、お勧めしたことを聞くことによって私に届き、その勧めに応じて一声称えたならば、私の往生が定まる。このことが大行ということなのでしょう。

正定(しょうじょう)の業とも言われます。

 

この大宇宙に、そのはたらきが届かないところはありません。私自身、17願と18願は、成就文からいくと、完全に呼応しております。17願が因で、18願は

果のような気がしています。異訳経では、一緒になっているのもあるそうです。

 

行信不離と言われるのも納得しています。皆様はいかがでしょうかね?

 

南無阿弥陀仏