いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

ただ念仏

お疲れ様です。

 

同じく仏教を学んでいる方に、お念仏を勧めてみたが、「念仏にどんな意味があるの?」とか、「念仏称えても何も変わらない。何がどう変わるの?」などと問われ困ってしまった。心の中にあることといえば、だって阿弥陀様が称えておくれと願っておられるからとこたえるしかない。

 

それに対して、また「阿弥陀様はどんな方?どこにおられるんですか?」とか「阿弥陀仏とほかの仏様はどこが違うんですか?」などと聞かれ、私も信前には同じことを考えていたので、一つ一つ答える必要があるが、すべては計らいで、とにかくお念仏を称えてほしいというしかないのです。

 

知識は知識でしかなく、全く力にもならないのです。

 

教行信証を拝読するうえで、大事なことが一つあります。知識を得るためではないということです。私が拝読している目的は、親鸞聖人の御心が少しでもわかればいいということと、当然ながら浄土真宗は、阿弥陀様の願いを衆生に届けることを目的としていますので、それを聞かせていただく。全く自身の名利のためではないということです。

 

さて、そこでこのブログを書くのに必要なWikiArcが今現在落ちてしまっているので、六要抄会本を拝読していて、親鸞聖人が言わんとされておられることが、ぼやーっとながらでも少し理解できた。

 

教行信証は、正確にいうと、「顕 浄土 真実 教行証 文類」といいます。

分けて書いたのには意味があります。六要抄会本には分けて書いた字を一つ一つ解説されてある。さて、「信」の字はどこに行った?ということでしょう。

 

三法と四法という言葉が、浄土真宗にはあるそうです。行の中に信を摂するということで、行=無碍光如来の名を称することと、信が同じこと、名号を離れた信もなければ信から離れた名号もありません。そこで名号のひとりばたらきとして、信がおのずから与えられる、衆生に身につくということで、三法からうかがうか、四法から見るかその違いをよく理解する必要がありました。

 

ですから、あえて信心せよとか言わないでも、阿弥陀様におまかせして、お念仏称えましょうとお勧めするわけです。

 

さて教行信証の標挙は、教と行と証ではあるが、さらに3つも加えておられる。仏教だけにとどまらず、全宗教をまとめておられる。の中のと証の中に真仏方便化身土を加えて6つとされた。後世の私たちを真実に導くためのお慈悲と思わずにおれない。

 

謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一には往相、二には還相なり。往相の回向につきて、真実の教行信証あり。

 

ここで信が加わった。二種の回向があるということと、往相回向には、そこに至る真実の教と行と信と証がありますよと述べられている。

 

教についての結論としては、大無量寿経だけが真実の教だとおっしゃっている。なぜ真実と言えるのか?出世本懐経ともいわれる。そのことについていろいろ考察されずに、大経の経文の引用と異訳経の文の引用だけをされて、真実だと言い尽くしておられます。

 

まさに有無を言わせず、お釈迦様が阿弥陀仏の本願を説いておられるので間違いないですよと。凡夫の私にはそうかぁ~というしかなかったです。

 

タイトルにある通り、親鸞様の仰ることを信じて、お念仏称えましょう。

 

なんまんだぶ なんまんだぶ

 

 

慶ぶべきことは、お念仏に遇えたこと。

合掌

 

お疲れ様です。

何か心がソワソワする。環境が変わって、緊張している私ですが、お念仏を称えていると、下支えされているような気がします。

 

造書の意を述べる

ここに愚禿釈の親鸞慶ばしいかな西蕃・月支聖典東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

 

教行証文類を著された宗祖が、喜びいっぱいに語っておられます。私たち真宗門徒として、この現代に生まれ、幸せなことに、文字を読めるようになり、考えを述べる機会が与えられたことは、最上の幸せ者と思わずにおれません。

 

しかもネットで、現代語まで読めるのです。ありがたいことです。

六要抄、赤沼氏の教行信証解説本、そんなものまで読めてしまう現代ではあるが、逆に異論や、別解が限りなく、また断章取義に陥って、宗祖の御心を誤解して、人を惑わせてしまう団体もあるので、注意が必要です。

 

私は、法然様と、親鸞様の教えにただ一つの違いもなく、首尾一貫していると思っています。専修念仏と信心正因称名報恩 言葉は違うが一緒だと思っています。

 

なんまんだぶ に何の違いがあろうか?

 

衆生の上か、仏の上か。あるいは、自力の心か、他力でなければならないとか、一念でなければならないとか、多念であるとか、いろいろ立場、教義があるだろうが、結論から言えば、阿弥陀仏の願い、誓いに治まります。

 

阿弥陀仏は、お念仏が衆生の上に活動している相をもって、良しとされているのではないかと思います。

 

私がお念仏を称えて、それを聞いて真似をして、なんまんだぶと子供が称えているのを見ると喜びを感じます。

 

亡き人を偲び、お念仏を称える。導師が称え、会葬者が称える。まさに活動している姿とは言えないだろうか?

 

本願が、空しいものでないことが、このごろ殊に、感じられる昨今です。

 

南無阿弥陀仏

 

たまたまお念仏に遇えることなんてあるんですか?

合掌

お疲れ様です。桜の花が、あっという間に散っていった。まさに短い命を象徴するようだ。

 

聖語

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。

 

 

この言葉を初めて見たのは、某S会に入会し、勤行をするときに、会員信条の後にこの聖語が、書かれてあった。もちろんはじめは意味など分かるはずもなく、このお言葉の意味を、何日間かけて、聞かせていただいた。

 

最初の 「ああ」は、びっくりしたことだと、しかも待ちに待ってようやくたどり着いた感動が表れている「ああ」だと。

 

例えで、昔はよく停電することが多く、しかも復旧するまでに、何時間もかかるのです。暗い闇の中をろうそくの灯りだけを頼りにして、あっちぶつかりこっちぶつかりして、不便な思いをしていた時に、パッと電気がついたときに、発する「あらー!ついたついたー」と喜びの「ああ!」だとか聞いた思い出がある。なんと話がうまい先生だと感動したのを覚えている。

 

苦しんで苦しんで、ようやく出会えた感動を、宗祖はありったけのお言葉で伝えようとなさっておられるのです。

 

ところが、次に、「たまたま」と書かれてある。仏教は因果の道理を教えているのに、たまたまとはどういうことなのだろう?偶然ということを万に一つ、億に一つもないと教えているのではなかったのか?

意外にも思えるこの「たまたま」ですが、現代語訳的には、偶然にもという意味ではなかったようです。仏の慈悲は広大無辺、しかも平等にかかっていることを考えると、必然的にわが身が受け取らざる得なくなったかのような意味なのです。無縁の慈悲であるために、どんな状況だろうと、投げられた球は受け取らないといけないようです。

勅命ですからねぇ、取り消しが効かないし、いったん出ると聞かざるを得ないのです。

 

そのあとの「行信」「宿縁」「疑網」「聞思」など、難しい言葉が並びます。

 

このブログでは一つ一つ解説してはおりませんのであしからず。

本願を信じ、念仏申さば仏になる、という簡単な理を教えられたのが、浄土真宗なんですよ。

 

聖語はそのまま味わいましょう。

 

南無阿弥陀仏

 

どんな人にお念仏を勧めておられるのか?

合掌

お疲れ様です。

新型コロナの第4波が、来ている昨今、火宅無常の世界、まさに厭うべき浮世である。

 

有縁を勧誡する

 

まずは、私とこの世を共に生きている妻に、お念仏をお勧めしてみた。

「この世は、苦しい。なんで生きているのか?何のために生きているのか?」

と私がつぶやいていると、妻が「何が苦しいの?仕事辞めたいんか?」と。

 

生きているのに必死だと、仏法の真実は、全く耳に入らない。

どうしたら耳を傾けてくれるのだろうか?妻は、目が悪い。両目とも白内障の手術もし、緑内障で、目薬を差して進行を抑えている状態だ。足も悪く、外反母趾も第1趾が、第2趾の上に乗っているような状況だ。歩きにくそうだ。

 

障碍者の自立支援をしているが、自分が障碍者になるんじゃないかと心配するほどだ。

 

私が事あるごとに、お念仏を称えていると、最初は無視していたものの、しまいには「うるさい!」と言われてしまった。

 

同じ屋根の下で暮らしているが、それまでの宿業が、まるで違うので、私はほとほと困ってしまった。

 

阿弥陀さんは、どうやって私たちにお念仏を届けたのだろうか?

宗祖が、教行証文類を著して、間違いなく理解してもらうにはどうされただろうか?

 

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

お釈迦様の教えは、阿弥陀様が遣わされた方であるし、地球上で現れた唯一の仏様であるわけです。そのお釈迦様を、人が作ったものであるとか、そんな昔のことなんか今役に立たないなどと思っている奥さんがいる。

 

そうかぁ、仏教をそんな風に思っているのか?悲しいではないか。

蓮如様が、この世で宿善のある人とない人を判断するポイントを御文章でこう仰っている。

「仏法を貴く思い、後生を大切と思う人」が、宿善のある人ということです。

御文章のいたるところで、宿善・無宿善を分別されるように言われているのは当然のこと。誰彼構わず無理にすることはできない。また仏法を聞かない人を馬鹿にしたり謗ったら、逆に謗られてしまう。注意しないといけないことなのだ。

 

とかくお念仏を称えつつ、生活していけば、おのずと仲間ができてくる。SNSでお念仏を称えているだけで、イイね!をしてくださる方がおられるのだ。

 

衆生済度に、正覚をかけておられる方がいらっしゃるのです。たまたま少し早かっただけで、時間は永遠なので、まだまだ慌てることはないですが、千載一遇のチャンスといえばこのことです。

 

この行信を、お念仏を獲得するべきです。宗祖のお言葉は大変に重たいです。

信順いたしましょう。

 

南無阿弥陀仏

 

 

お念仏を受け取るのは難しいのか、易しいのか?

合掌

お疲れ様です。

 

日頃から、フェイスブック等で、真宗を学んでいる方のページでコメントさせてもらっているが、信心を得ることは難しい、これ以上難しいことはないとの記事を読ませていただくことも多い。

 

凡夫が、ご信心を得る事の難しさを宗祖も正信偈の中で、「信楽を受持することは、難の中の難、これに過ぎたるものはなし」とおっしゃっているし、経を見ても、難信の法を説くとお釈迦さまも説かれている。

 

では難しいのだろうと、思えばいいのか?

 

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。
 しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし

 

 

総序から、直接貼り付けさせていただいた。

 

本願の名号には、悪を転じて、徳をなす力用(はたらき)があり、それを受け取れば間違いなく往生できると。ですから、これ以上簡単な教えはなく、だれでもできる近道ですよ!とおっしゃっておられます。

 

なぜ難しいと考えがちなのかといえば、先ほどの正信偈のお言葉の前に、邪見驕慢の悪衆生は難しいのであって、つまり衆生側、私たちがどうにかして得ようともがいても得れるものではなく、素直に本願のいわれを聞き受け、お念仏するものにはすでに、お念仏は届いているので、あれこれと悩む必要はないということなのです。

 

凡夫の考え休むに似たりと先哲も教えておられます。

 

六つの字のいわれをよく聞き分け、お念仏を称えることが、一番であります。

 

南無阿弥陀仏

 

いかにして念仏を選ばしめたか?

合掌

 

お疲れ様です。

教行信証の総序で法義の讃嘆中ではあるが、私達の機が、浄業=称名念仏にどうして出会えるのか?

これが最大の不思議である。

そこを観経を引用され、超解釈されておられるのが、まず最初に、お釈迦様を殺そうと企んだ提婆達多を登場させる、そしてさらに父王を殺した阿闍世太子を、そこで観経を聴聞されたイダイケ夫人を登場させ、浄土を願わせた。

悲劇でありながらも、なんとドラマチックであろうか?

中国の天台智顗なども、イダイケは、権化の、菩薩様という解釈であったが、善導大師は、私達と同じ凡夫と解釈されておられるので、善導大師ただお一人、仏の正しい御心を明らかにされたと親鸞様は褒め称えておられるので、イダイケはただの人と受け取ればそれでいいのだと思ったら、いやいやそうじゃないんだと、これまた覆しておられるところが、こちらです。

 

これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。

 

仏様の慈悲は、徹底されておられますね。

そんな者まで救い切ろうとされたから、この観経の超解釈を聞いた時に、歓喜致しました。

 

南無阿弥陀仏

 

ひそかにおもんみれば

合掌

 

お疲れ様です。

宗祖のお書きになった主著である教行信証の今の自分で味わっているところを書こうと、力んでみた。

 

漢文で書かれてあり、読めないし理解しがたいものですが、まさにタイトルにある通り、親鸞様も、真如の世界を、自分の理解は超越しているが、書かずにおれないと、筆を取られておられますので、私も ひそかにおもんみたいと思います。

 

そもそも ひそかにおもんみればとは善導大師の観経疏の玄義分のお言葉のようでした。ひそかにおもんみれば - WikiArcによる。

 

それにしても親鸞様の一言一言が自分勝手に言われたお言葉ではなく、必ず経釈に裏打ちされた言葉であるわけです。

 

次に、

難思の弘誓は難度海を度する大船

無礙の光明は無明の闇を破する慧日なり

 

難度海は、苦海、生死、私達の人生と簡単に思いがちだし、親鸞様はそういう意味でおっしゃっていますが、最初にこの難度海の言葉は、龍樹菩薩のお言葉で、八聖道、聖道門に対して、浄土門は、大船に乗るようなものと言われたことをさらに発展させて、すべての衆生を乗せる船だとおっしゃるのです。

 

難思、無礙は、存覚上人の書かれた「六要抄」によれば、十二光から、韻を踏むように選びとられたものでした。

 

このブログを書く時に、上記の六要抄をさらに解説せられた六要鈔会本 (円爾)の存在を知った。

 

さまざまな教行信証の解説書があるので、ネットを駆使して解読して味わっていきます。

 

無明の闇を破するとは何か?

さとりの境地の反対なのだが、ねこねこ先生瓜生崇 - Google 検索の影響受けてますが、孤独地獄、分別や差別から離れられない私達に、一人じゃないよ、比べる必要ないよと、真如の世界からの呼びかけに目覚めることではないかと思います。

 

もちろん親鸞様は違うと思います。今までは煩悩が苦しみの元だと思っていたが、そんなことではなかった、本願ですでに私達を完全に救う道が成就されていたという歓喜が伝わって参りました。

 

以上が私が今味わっているところです。

 

南無阿弥陀仏