いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

【非公式】安心問答 YouTubeチャンネル 福井座談会 2021.08.29

合掌

お疲れ様です。本日、コロナワクチンの1回目の接種を終えてきました。

全然大丈夫でした。これで体内で、抗体ができれば、イイなと思いました。

 

さて、先日の安心問答にて、教えていただいたことは、善導大師が、浄土真宗のご信心、念仏のご信心について、誤解や、曲解を避けるために考えられた譬のお話です。

 

本願に乗じた人は、どうなるのかというお話です、決して、その道に乗じるにはどうしたらいいのかという話ではないことに注意していただきたいのです。

 


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善導大師が作られたものですが、主体は、阿弥陀如来です。我です。汝と呼びかけられているのは私です。

 

南無阿弥陀仏

このうえの称名は御恩報謝と慶びます!!

皆様お疲れ様です。

今日はどしゃ降りの中、250部の新聞を3時間かけて配達してまいりました。

毎日文句も言わず配達していただいている配達員が私用で一日お休みしたのです。全くの怒りもなく、ただただ感謝しかありません。ところがどっこい普段楽しているもので、しんどくて、お念仏も暇あらず、全く出ませんでした。なんと情けないことか。

 

こんなにあさましい私に届いたご名号のはたらきとはいかなるものか?

またぶっちゃけさせていただきます。

 

先回のブログで、フェイスブックにもシェアさせていただいているので、いろいろとご質問をいただいた。

 

ご名号が届いて、私が一声称名したことで、往生が定まると述べたものだから、往生の正因は、称名ですか?と質問された。いやいや往生の正因は信心ですと返してしまうとこれも私は違うと思ったのです。

 

後先の質問もあった。ご信心獲てからの最初のお念仏で、往生定まるのですね?と。

 

どう答えたらいいのだろう?

 

大宇宙の宝、はたらきであるところの、名号、十方に響き流れていると経に説かれてある。そのお宝が、わが身に届いたのです。

 

今まであれほどいちゃもんつけていた、わからないと叫んでいた疑いが除かれ、無くなった、それがご信心なのだろうか。ふっと口から出たお念仏。あれ?もやもやした心はどこへ行ったのだ?信の一念とはいいながら、極速円満されてしまうと凡夫には不思議というほかないのでした。

 

順番があるものでもないというのが、わたしの領解であります。

お聖教を拝読したり、あるいは同行に尋ね歩くのは、最初は自分の信心調べでありました。他人から認定されるものでもないが、お聖教にその証を求めているのかもしれません。御文を拝読しても、どこぞの団体のように断章取義に陥らず、一言一句吟味しています。

 

往生の正因は、称名ですか?の質問に、下記のブログを紹介させていただきました。

TENさんありがとうございます!

midanoganshin.blog.fc2.com

 

まだまだ宗祖の仰りたいことがすべて理解できているとはとてもいいがたいのですが、やはり好きなんです、しんらんさまの生き様というか、発言とかからくみ取れる心が。

とりあえず今日はここまで。破闇満願釈もすごいので早く言いたいけどやめておきます。

南無阿弥陀仏

浄土真宗の行とはなにか?

お疲れ様です。

 

浄土真宗において、願行具足の南無阿弥陀仏以外に必要なものはない!

とはいえ、実際に日暮させていただいていると、なぜか誰かに伝えたいなどと、浅学の身でありながら思うのです。世間においては、仕事に励み、私も一応、店長としてお店を預からさせていただいて毎日重圧を感じている。家族も奥さんは、思いがけなく骨折して仕事を休んでいる日々、娘はお腹にやっとできた子供を宿している、息子は何やら病気で、仕事を休みがちで、新型コロナで、県独自の緊急事態宣言ということで、在宅ワークを余儀なくされている状況で、まさに難度の海に沈没しているんですが、私は心は浄土に遊ぶなり、このようなブログにありたけの思いをぶつけるのです。

 

教行信証も行の巻に入り、一挙に難しくなったので、1か月以上もブログを休んでしまった。その間何もしてなかったということはない、様々な書を読み、注釈版 浄土真宗聖典 第二版も購入し、勤行もしてなかったので、浄土真宗本願寺派 日常勤行聖典のCDと本を購入し、お勤めも励んでいる。例の赤沼氏の教行信証の証の巻まで読み進めたのだ、何か結論のようなものが出てもよさそうではないか?

 

大行とは、無碍光如来の御名を称するなり これが浄土真宗の正しい行だとおっしゃるのです。

 

私たちの行為については、実感としては何も役に立ってはいない。いくらお念仏を称えても、いくら勤行しても、何に役立つというのか?

 

 

 

 

あゝこれが、非行非善と言われたことなのか!

 

大行と言われた場合、私の行でありながら、主体は如来、諸仏なのです。十劫も昔にすでに成就されたところの名号を諸仏方、お釈迦様も含めて、そのお名前を称賛し、お勧めしたことを聞くことによって私に届き、その勧めに応じて一声称えたならば、私の往生が定まる。このことが大行ということなのでしょう。

正定(しょうじょう)の業とも言われます。

 

この大宇宙に、そのはたらきが届かないところはありません。私自身、17願と18願は、成就文からいくと、完全に呼応しております。17願が因で、18願は

果のような気がしています。異訳経では、一緒になっているのもあるそうです。

 

行信不離と言われるのも納得しています。皆様はいかがでしょうかね?

 

南無阿弥陀仏

【非公式】安心問答 YouTubeチャンネル 2021.06.27

合掌

お疲れ様です。

本日も、教行信証を味わいを述べたいところであるが、毎月一回の座談会に人生を賭ける決意をした。そんな大層なwと思うところではあるが、浄土真宗の信心を間違ったら、ごめんなさいでは済まないことなのだ。よくよく吟味してアップしていきたい。

 

youtu.be

 

南無阿弥陀仏

【非公式】安心問答 YouTubeチャンネル

お疲れ様です。

親鸞聖人の書かれた教行信証を少しづつ味わいを含めて、いろいろと書かせていただいているが、今回は、新しく開設した、私のYouTubeチャンネルを宣伝させていただきたい。

 

先日5月23日(日)で、地元の会館でお話しいただいた、遠く山口県からお越しいただいた宮田秀成先生の動画をYouTubeチャンネルで公開させていただいた。

 

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これからできるだけアップしていきたいと思います。

 

南無阿弥陀仏

ただ念仏

お疲れ様です。

 

同じく仏教を学んでいる方に、お念仏を勧めてみたが、「念仏にどんな意味があるの?」とか、「念仏称えても何も変わらない。何がどう変わるの?」などと問われ困ってしまった。心の中にあることといえば、だって阿弥陀様が称えておくれと願っておられるからとこたえるしかない。

 

それに対して、また「阿弥陀様はどんな方?どこにおられるんですか?」とか「阿弥陀仏とほかの仏様はどこが違うんですか?」などと聞かれ、私も信前には同じことを考えていたので、一つ一つ答える必要があるが、すべては計らいで、とにかくお念仏を称えてほしいというしかないのです。

 

知識は知識でしかなく、全く力にもならないのです。

 

教行信証を拝読するうえで、大事なことが一つあります。知識を得るためではないということです。私が拝読している目的は、親鸞聖人の御心が少しでもわかればいいということと、当然ながら浄土真宗は、阿弥陀様の願いを衆生に届けることを目的としていますので、それを聞かせていただく。全く自身の名利のためではないということです。

 

さて、そこでこのブログを書くのに必要なWikiArcが今現在落ちてしまっているので、六要抄会本を拝読していて、親鸞聖人が言わんとされておられることが、ぼやーっとながらでも少し理解できた。

 

教行信証は、正確にいうと、「顕 浄土 真実 教行証 文類」といいます。

分けて書いたのには意味があります。六要抄会本には分けて書いた字を一つ一つ解説されてある。さて、「信」の字はどこに行った?ということでしょう。

 

三法と四法という言葉が、浄土真宗にはあるそうです。行の中に信を摂するということで、行=無碍光如来の名を称することと、信が同じこと、名号を離れた信もなければ信から離れた名号もありません。そこで名号のひとりばたらきとして、信がおのずから与えられる、衆生に身につくということで、三法からうかがうか、四法から見るかその違いをよく理解する必要がありました。

 

ですから、あえて信心せよとか言わないでも、阿弥陀様におまかせして、お念仏称えましょうとお勧めするわけです。

 

さて教行信証の標挙は、教と行と証ではあるが、さらに3つも加えておられる。仏教だけにとどまらず、全宗教をまとめておられる。の中のと証の中に真仏方便化身土を加えて6つとされた。後世の私たちを真実に導くためのお慈悲と思わずにおれない。

 

謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一には往相、二には還相なり。往相の回向につきて、真実の教行信証あり。

 

ここで信が加わった。二種の回向があるということと、往相回向には、そこに至る真実の教と行と信と証がありますよと述べられている。

 

教についての結論としては、大無量寿経だけが真実の教だとおっしゃっている。なぜ真実と言えるのか?出世本懐経ともいわれる。そのことについていろいろ考察されずに、大経の経文の引用と異訳経の文の引用だけをされて、真実だと言い尽くしておられます。

 

まさに有無を言わせず、お釈迦様が阿弥陀仏の本願を説いておられるので間違いないですよと。凡夫の私にはそうかぁ~というしかなかったです。

 

タイトルにある通り、親鸞様の仰ることを信じて、お念仏称えましょう。

 

なんまんだぶ なんまんだぶ

 

 

慶ぶべきことは、お念仏に遇えたこと。

合掌

 

お疲れ様です。

何か心がソワソワする。環境が変わって、緊張している私ですが、お念仏を称えていると、下支えされているような気がします。

 

造書の意を述べる

ここに愚禿釈の親鸞慶ばしいかな西蕃・月支聖典東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

 

教行証文類を著された宗祖が、喜びいっぱいに語っておられます。私たち真宗門徒として、この現代に生まれ、幸せなことに、文字を読めるようになり、考えを述べる機会が与えられたことは、最上の幸せ者と思わずにおれません。

 

しかもネットで、現代語まで読めるのです。ありがたいことです。

六要抄、赤沼氏の教行信証解説本、そんなものまで読めてしまう現代ではあるが、逆に異論や、別解が限りなく、また断章取義に陥って、宗祖の御心を誤解して、人を惑わせてしまう団体もあるので、注意が必要です。

 

私は、法然様と、親鸞様の教えにただ一つの違いもなく、首尾一貫していると思っています。専修念仏と信心正因称名報恩 言葉は違うが一緒だと思っています。

 

なんまんだぶ に何の違いがあろうか?

 

衆生の上か、仏の上か。あるいは、自力の心か、他力でなければならないとか、一念でなければならないとか、多念であるとか、いろいろ立場、教義があるだろうが、結論から言えば、阿弥陀仏の願い、誓いに治まります。

 

阿弥陀仏は、お念仏が衆生の上に活動している相をもって、良しとされているのではないかと思います。

 

私がお念仏を称えて、それを聞いて真似をして、なんまんだぶと子供が称えているのを見ると喜びを感じます。

 

亡き人を偲び、お念仏を称える。導師が称え、会葬者が称える。まさに活動している姿とは言えないだろうか?

 

本願が、空しいものでないことが、このごろ殊に、感じられる昨今です。

 

南無阿弥陀仏