ただいま救われてください。
合掌
お疲れ様です。
まだまだ信心得られないと、まだまだ先と言っている人が多い。
特にS会で、似非真宗を聞いている人は、皆真面目で、聴聞が足りない、きちんとお勤めしないといけないとか、お布施は、精一杯頑張りますとか自分の在り方を問題にしている。
一向専念 無量寿佛 がお釈迦様の結論と聞いておられるのでしょう?
慎重に、自分の思いを横に置いて、阿弥陀様のお約束を聞いてください。
絶対の幸福じゃないですよ?
簡単なことです。
私、阿弥陀仏のお名前を呼んでください 我が名を称えよ、と、その願いを聞くのが聴聞ですよ?
変な宗教なんです。あなたの願いを仏さんに聞いてもらうんじゃないのです。
仏さんの願いを聞くのが真宗なんです。
その願いを聞いて、私に目覚めていく、なんか適当な言葉が見つからないが、ただいま救われていくのが真宗だという事です。
朝から、まだまだ信心得られないと悩んでいる方がおられたので書いています。
仕事のお休みに
合掌
お疲れ様です。
仕事が生きがいの人は今はいないだろう。仕事で殺される人は少なからずいらっしゃるでしょうが、この新型コロナの影響で、今までと生活がコロッと変わられた方はたくさんおられるでしょう。私もその一人です。
基本戸別訪問が仕事なんです。とにかく人と会わないと仕事にならないのです。営業マンなんです。
物を売るのに、何ができるのでしょう?
幸いなことに、皆情報に飢えているんです。今まで自分には関係ないとスルーしていた情報ばかりが掲載されている新聞に今、ほとんど紙面が新型コロナの情報で埋め尽くされていますので、とてもスルーできないのでしょう。自分の生命が大事なのです。一番好きな自分の健康が大事なのです。
浄土真宗を聞いている私にとってみれば、自分の生命よりももっと大事な問題があります。私たちの行き先です。
人間はどこから来てどこに行くのか?
これにちゃんと答えてくれる教えが唯一仏教であることを知っている、この事が幸せなのです。
まして行き先がハッキリしている私は、何という幸せなのか?
真宗の教えをぜひ聞いていただきたいと思います。
山も山さんにお会いして
合掌
お疲れ様です。
世間は、新型肺炎の影響で、様々なイベントが延期、中止していく中で貴重な時間を過ごすことができた。S会の脱会等で助言していただいた、安心問答ー浄土真宗の信心についてを書いておられる山も山 (id:yamamoya)さんに、福井駅でお会いできた。
福井駅周辺が、かなり様変わりしているのを見て驚いておられたが、日曜日で外出自粛の影響で人がまばらな駅前を、どこか食事しながらゆっくりできる所をネットで検索していただき、近くのファミレスに向かった。
せっかくの機会なので、今の悩み等を打ち明けた。
S会をやめて、心にポッカリと空いた喪失感もあり、真宗の伝統教団でどこがいいか助言していただいた。
そもそも仏教は、大乗と小乗仏教があるという話しから始まり、浄土真宗とは法然聖人からの親鸞聖人、さらに現在まで、真宗十派になり、近所には、真宗大谷派のお寺さんが、毎月定例法話しているのでそこならいいかと尋ねたら、本願寺派と大谷派の話になった。
以前書いた私のブログ記事を見ていただいているので、異安心とはどんなことか、本願寺派にとっては、正しい信心の枠がハッキリしているのでその枠の中か外かで判断されるのだそうです。
安心論題というのが25あり、初めて学ぶ人には難解だけど、信心の指標になるものです。
対して大谷派は、清沢満之氏から、金子大榮氏、曽我量深氏などの諸氏の流れがあり、新しい言葉で仏語を表現しているので、しかも哲学的な学問とも結びつき、自由に味わいや信心を述べているので難しいのではないかとのことで、それでも私は惹かれていたが、何が正しいかさらに悩むことになるので、やはり安心論題を一度学んだ方がいいとの事でした。
今までのS会の教義は、間違いが多く、一から学んだ方が良い。というのは、すでに真宗とは違う教義になっているのでまったく本願寺派も相手にしていないというが、浄土真宗を名乗っている以上邪義を許せるはずもなく、今後も飛雲さん同様に、邪義を追求していくという話しもあって、頼もしくなった。
S会では、まったく出てこない言葉に、最近改めてすごい言葉に出会い、感動している。
真宗は、法然聖人からと述べたが、法然聖人は、善導大師の書かれた
「一心専念 弥陀名号」で救われたと、S会でも言っているが、阿弥陀仏の本願で最も重要な本願は、もちろん18願だが、この願いの真意を明らかにされたのは、本願加減の文であろう。
若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚。
もしわれ成仏せんに、十方 の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ。
真宗においては、この言葉の重要性を改めて明らかにしないと様々な問題が起きてくると感じる。
山も山さんのいつも説いておられる、ただいま救われてくださいという話しは、我が名を称えよとおっしゃる阿弥陀様の呼びかけに、はいとなった時に大悲の心で満たされる。
もっともっと早く気づいていたらよかったです。
山も山さんと、また再会を誓い、駅の改札口でお礼を述べて、振りかえりつつ、その場から、立ち去った。
あー仕事が残ってた〜!焦りながらも喜びに浸っていた。
後生の一大事を心にかけよ!
合掌
あまりに法座の中止が多くて、がっくりしているが、刻一刻と無常が迫ってくる。
とはいえお念仏の中にいると、今までのような焦燥感が消えた。
死ぬのが怖いんだけど、どうにかしようとか思わなくなった。生きている間できるだけお念仏を喜び、共に法を聞きたいです。
YouTubeには、様々なご法話がアップされている。一番好きなのは、大峯顕先生のお話しです。
ブログタイトルで検索すればすぐ出てくる。
ほんの一年程前までは、S会のお話ししか聞いてなかったのに、変われば変わるものだなぁ。
阿弥陀様もS会は、そのうち消滅していくと思っているのであろうか?せっかく保ちやすい、やさしい言葉の仏様になられたのに、もったいないことだ。
富山まで行って何を聴くのかさっぱりわからない。
行けば行くほどわからなくなってくることを思い出す。
教えも、講師陣も迷走している。おそらく彼らには焦燥感しかないのであろう。狂った教祖について行けばどうなるか、いずれ明らかになる。
念仏者の生活とは?
合掌
当然ながら、お念仏を称えさせていただく。
私の口からでるお念仏を聞かせていただき、阿弥陀様の願いを静かに想う。
とはいえ凡夫である。
生活は、貪瞋痴を出来る限り抑えていくしかないのではないか?
いわゆる少欲知足を実践していきます。
欲をあまり起こさないようにすると結構うまくいく。
今こそお聖教を拝読し、法を喜ぶべきではないだろうか?
ただ法をねじ曲げ伝える者には批判しないといけないので、飛雲などを読んで、きちんと説明する必要がある。
言いたいことは、そういうことではなかった。
お念仏を称えるということは、自然の摂理によって、往生が定まるということがわかったということです。
そのようにしてくださったということがわかりました。
一体なぜそんな思いに落ち着いたのかわからないが、阿弥陀様のおはたらきの中に、私がいるのであります。