信の一念は、喜べるのか?
合掌
お疲れ様です。 他力の世界を言葉にするのは難しい。
歓喜初後
今日は安心論題の、歓喜初後について
かなりのハードルがあるが、あくまで私の領解を、述べさせて頂きます。
というのは、信前でこの事を聞くと、それが目的でお聴聞することになるからだ。
一念の自覚はあるのか?ないのか?
これに関しては、覚知できるものではないと思っている。
某S会にいた頃は、南無阿弥陀仏に殺されるのだから、ハッキリするものだ!と思っていた。私の先生の久保龍雲氏にも、そこのところをよく質問しておりました。
譬えをもって示すと、真っ暗な闇に、目をつぶっていたとする。 夜は、日が上がり明るくなっているが、まだまだ目をつぶっているのが私の姿。
先生が、もう夜が明けていますよ?どうぞ目を開けなさいとおっしゃっている。素直に開ければいいのだが、ほんとに明けてますか?と問うのだ。
もう明けてからずいぶんと経っているのだが、曇天なのです。しかも家の中にいるのです。
すでに夜が明けていたが、雲が日を遮っていた。私は目を開けた。
目を開けた時が、信の一念だと思う。
『一念多念文意』には(真聖全二―六〇五)、 一念というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり。 と示されています。 宗祖が信一念のときをきびしくおおせられるのは、信心を獲得してから時をへて往生の因が決定するのではなく、信心獲得の初際に往生の因が決定する。つまり、受法(信心をいただくこと)と得益(往生が決定すること)とが同時である旨を示されるのであります。受法と得益とが同時であるということは、その間に私どもの力をまじえず、名号願力が私の心にとどいたときに往生が決定する、いいかえますと、信心ひとつが正因であるということを、徹底してあらわされるのであります。
そしてその後喜びはどうなのか?
これに関しては、喜びより驚きの方が大きいかもしれません。
先ほどの譬えで話したように、目を開けて、周囲を眺めているのです。不思議だ、不思議だ、先ほどまであった闇はどこに行ったのだ?どこにもないじゃないか?
初起一念のときの歓喜は、如来の勅命が聞こえたままの歓喜であり、如来の慈悲が私の心に届いたままの歓喜であり、無疑決定心が開発した当初の大安堵心であります。これは如来の勅命が私の心中に印現したまま(印をおしたようにそのまま現れる)の歓喜であって、私が意業に想いを運んで生じたものではありません。「ああ有難い」とか、「勿体ないことよ」とか思うのは、すでに第二念以後であります。
確かに安堵感かもしれません。 苦しみもがいて疲れ果て、お念仏も出なくなっていたはずですが、その苦しみが一瞬で抜かれていたのです。
躍り上がるほどの喜びではなくて、素直に聞けた安心満足なのです。
お忙しい中、私の戯言を読んでいただき、ありがとうございました。