いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

最後の親鸞会報恩講

真宗のご信心について、正しい信心とは何か?ということを信心獲た方から聞くのは当然のことだが、自力の信心なのか、他力の信心なのか、未信の者は判別できない。

それならということで、お聖教を元にして、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の書かれたものを元にして、真宗の正しい信心を明らかにする必要がある。

しかしながら、お聖教の解釈を間違うと大変なことになる。

今日は、先ほどのお三方とは違う唯円の著作と言われている歎異抄親鸞聖人のお言葉を通してのお話だが、真宗の教義を正しく説いているのだろうかと思いながら聞きに来ている。

他の方とは違う横から見る初めてのお話になりそうです。

 

1日目は、親鸞聖人がはっきりとされたことの一つとして、阿弥陀仏とお釈迦様の関係について。阿弥陀仏は、お釈迦の先生であるということ、弟子であるお釈迦様は、先生の本願、願いを私たちに届けるためのご一生であったという。そしてお釈迦様が説かれた一切経は、廃悪修善の教えである、なぜなら因果の道理に貫かれているからです。

それではこの教えと本願との関係は何かについてということで1日目は終了した。

2日目、お釈迦様が生涯説かれたほとんどのことは廃悪修善です。それが阿弥陀仏の本願にどうつながっていくのか?

真剣に悪をやめよう、善をしようと実際にやってみて知らされることは、善ができない、悪しか作れない姿でした。かつて一善もなし、そして悪因悪果 自因自果、人生は苦なり。

一切経は、全ての人は極悪人と知らせ、本願に導くためであったという。

善人なおもつて往生をとぐ、いわんや悪人をや

この悪人は、全人類。善人は、まだ善ができるとうぬぼれている者。そんな者でさえやがて助かるのだから、自分は悪人だと知らされている者はなおさら助かるという。そんな論理的でわかりやすいのだろうか?

本願は、悪人正機の本願であるという結論でした。

一生かかっても私には無理だ。