いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

真実の行とは?

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。

 

 

 

お疲れ様です。

コロナ禍が収まりません。仕事にも支障を来し、その中で私の異動が決まった。もう私も57歳ですよ。定年まであと3年しかないんです。上昇産業ならいいが、下降産業です。私への期待は、人間関係の仲裁。なんかトラブルになっているようなので配置転換です。とはいうものの、会社には文句はないが、今の職場への思いは強い。混乱するのではなかろうか?まぁ、私などいなくても何とか回っていくものだ。

 

親鸞聖人が、大行を無碍光如来の御名を称することだと冒頭に言われて、そのあと様々な経釈を引用され、結論を述べておられるところです。

 

大行と言ったからには、私の行いであるにもかかわらず、仏様が選択された行いであるから大行であって、私の行いには一切の善根功徳がないと、前回も書いた。功徳成就の名号が回施されたのだから、一ミリもこちらの善は認めないから、至極無碍なのだ。

 

そのような思いの中にいると、このお言葉が体中に沁みてくるではないか!

 

コロナ禍において、もはや県外からお招きすることができないので、Zoomというアプリでオンラインですることを思いついた。先月からやっているのだが、ZoomもProにアップグレードして、SNSで同時配信できるようにした。同時にYoutubeにもアップできるのだが、編集したいので、あえて同時にはしてない。

次回のイベントへのリンクだけ、ここに公開したいと思う。

fb.me

リンクはこれでいいのかな?

Zoomのミーティングに参加されたい場合は、Facebookで、carsa.jを探してください。

 

仕事が忙しく、普段はまったくSNSその他のことに時間を割くことができない。睡眠時間を確保するのが大事です。遠距離を車で通勤すると、居眠りで命を落としかねないし、一度死にかかってから、仏縁に出遇ったということもあるが、二度と事故は経験したくない。それにしても夜中仕事は、疲れる。その分給与は余計もらわないといけないんだが、会社が儲からないのに、今は昇給は難しいだろう。世知辛い世の中だ。

 

南無阿弥陀仏

不可思議なお念仏のはたらき

乗大悲願船

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

あっという間に3月になってしまった。

毎朝のおあさじに欠かさず参っていたら、60日参り達成してしまった。この調子で、100日参りを達成しようと思っている。といっても朝6時からの30分の勤行に参加しているだけだが。1年前には、してなかったルーチンを取り入れた。

 

毎日が、お念仏で明け、お念仏で暮れるようになった。

そうすると、心が歓喜で満ちてくるようになる。

引用にあるように、心に闇がないというだけで、焦りや不安が消えていく。

宿因、宿業もこれから先当然受けていかねばならないが、不思議に恐怖や畏怖がないのだ。世間や家計は大変なことになっている。また仕事でも、どう考えても下降線をたどっている産業に従事している。会社も赤字に転落して、総務部長も頭を抱えて、申請書を持って行ってもなかなか印鑑がもらえず突き返されるのだ。

 

念仏者の生活とは、他力に生かされるといわれているが一体どういうことなのか?

機に向かえば、愚かさや浅ましさしかない我が身が知らされ、法に向かえば、そのような私を助けずば仏にならないと誓われた本願が頼もしく有難いと味わえるのです。

 

毎日お勤めに参らせていただいている住職から、珍しく質問されて「なんで浄土真宗に興味を持ったの?なんではまったの?」と聞かれて答えに窮してしまった。

…何度考えてもわからない、なんで聞いたのかわからないんですよ。

様々なことに興味を持ち、いろいろやったり経験してきたが、なんでお念仏称えてるのか、はっきりと答えることのできる人がいるだろうか?よき人の仰せにしたがってただ念仏称えているという人が多いのではないだろうか?

 

法然聖人のような方は、還相の菩薩であるとおっしゃったということだが、引用では普賢の徳に遵うと言われているが、浄土に往生してからの話ですが、自在に衆生勧化したいものだと思ってしまう。

 

休日に、YouTube築地本願寺の常例法話をお聴聞していると、入れ替わり立ち代わり布教使がご説法されておられるが、みなすごいなぁと感動します。

 

無二の善知識の話しか聞いてはならんと言っている団体もあるので、注意が必要です。

本当に人に依らず、法に依れとお釈迦様が説かれた通り、間違いなくお念仏の心を伝えて下される伝統教団があるのは心強いですね。

 

私にとって、洗脳があったのかもしれないと思えるのは、上記に上げた善知識は一人しかいないという問題と宿善問題。親鸞聖人の教義を利用した人集め金集めの活動をしたことですね。みな後生解決したい、信心決定したい、地獄に堕ちたくない、人情まで利用して、恐ろしい謗法ではないか。。。許せないというのはこのことです。

 

ロシアのプーチンが許せないというが、まさに業縁だろうなぁ。池上彰のテレビでなぜ戦争になってるか?その理由を解説していたが、プーチン寄りじゃないかと思うほど、なんでそうなったか納得できた。

 

相変わらずコロナの感染は続いている。コロナになったと知らせてくる知人もでてきてしまった。仕事にも支障をきたしている。

 

果たして衆禍の波が転じているであろうか?

先に述べたように、難度の海は、生きていれば全く変わらないのです。

大船に乗っていると、衆禍が次から次にやってくるのは、想定内なんですね。

先哲が、喜んで苦しんでいけると言われていますが、いつ死んでもいいからなんですよね。死ぬことほど苦しいことはないとみな思ってる所が解決してしまうわけですからね。

 

これからもぼちぼちやっていこうと思っている今日この頃です。

 

南無阿弥陀仏

阿弥陀様は、どのように私を救おうとされたのか?

光明と名号をもつて十方衆生を摂化したまふ

合掌 お疲れ様です。

新しいノートPC を購入したので、さっそくとブログを更新しようとしております。

教行信証の行巻もズバリズバリと結論が述べられているところです。

 

法然上人と親鸞聖人の教えが、違うのではないか?などと考える人がいて、次のお言葉がかなりややこしいのだが、これを一つ覚えておくと、なるほど違いがないなとわかることであります。

まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃 六五九)とのたまへり。
また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。また「真宗遇ひがたし」(散善義 五〇一)といへるをや、知るべしと。

私たちの往生を誓われた誓願だが、どうやって救おうとされたのか?

仏教は、因果の道理です。因と縁とが和合して、果が生じるわけで、私たちは如来から見れば、実は救いようもない奴なんですが、広大無辺な大慈悲がかかっており、すでに悲願が成就しているわけです。

 

つまりは名号が私に届くことにより、タネがまかれることになりますね。そのタネには、すでに往生の因が込められていますので、私の元で称名として形を表し育て上げるのです。それが光明を縁としてのおはたらきであります。これはわかりやすい。

初重の因縁と言われますが、これはお念仏がタネとして私の往生という証果が定まるという、三法【教・行・証】を表すもので、法然上人の教えですね。

 

そして後重の因縁とは、真実信心をタネとして光明・名号が縁となり、往生の証果が定まるという義でございました。これは親鸞聖人が、明らかにされた四法【教・行・信・証】でした。

 

どちらにしても、ご名号を私が正しく受け取ることで、私の往生が定まるとの義でございます。

 

お念仏を受け取ると、信心も念仏もともにタネと味わえます。

何しろわたくしのなすべきことは一つもないのです。

 

RCさんではないが、本願成就のお話を聞いて、ご安心たまわりますと、あぁ何にもこちらから必要なかったんだと味わえるのです。

 

今日もありがたや、うれしやと、称名に励むのであります。

 

南無阿弥陀仏

お念仏を称えたら、こんな素晴らしいことになる!

行信利益

しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。

 

本願力によって、私にお念仏が届いて、早2年が過ぎた。

その間、このブログもぼちぼちと更新して、浄土真宗のご信心の味わいを書いてきた。また仕事においては、課長として、店を任せられるようになり、何とかお店を回している。

 

日々様々なご縁に触れて、お念仏を称えさせていただいている。

福井で、毎日勤行の配信をしている、長松寺様と知り合うことができた。


www.youtube.com

私の少し薄くなった頭もご覧くださいw 後ろ姿も映っています。

何しろ毎日配信されているので、失敗したのも全世界に配信されます。まぁそういうリスクも抱えていても、大事なことなので、包み隠さず中継されている。

だれも補助がいない、全部ひとりで配信されておられるのだ。鐘くらい私が撞かせていただきたいと思うのだが、座敷の裏をバタバタと毎日走る音が聞こえている。

広い本堂に、実は参詣者は私一人…さみしい限りだ。コロナ禍で、集まれないといっても、早いし、寒いし、こうやって配信されると、YouTubeでお参りする人も増えているようだが、実際に阿弥陀様の御前で、させていただき、和讃を唱和するこの歓びは、してない人には絶対わからないことなのだ。

 

信前の人は、たぶんこれが功徳となり、阿弥陀様に認めてもらいたいとか、これだけお参りしているのだから、極楽参り間違いないとか思うのかもしれない。念仏者とならせていただくと、私の行いなど、一生参ろうがゼロだと自覚しているので、すべては御恩報謝と存じ歓び候ですよ。ましてや念仏者は、毎日朝夕阿弥陀様に手を合わさないといけないと思います。私たちの功徳は、すでに成就していますので、足すことも、努力することもいらないので、日々徒然に、そして自然に、まかせて精進すればいいのです。

 

矛盾していることを言ってるような気もしますが、グダグダで大丈夫と、新年からありがたい言葉もいただいた。

 

今日も嬉しや、南無阿弥陀仏

お念仏には、私を仏にする力がある?

合掌

お疲れ様です。新聞の休刊日とはいえ、店長として月の半分に近づき、皆のシフトを考えなければいけないので、午後から、職場に行く。

 

やるべきことはたくさんあるのだが、意欲があまり出ない。

このブログも、教行信証の最も大事なところに入ってきた。

 

親鸞聖人が、お念仏を讃嘆して、さぁそれは一体どんな力用があるのか?明らかにするところです。

 

決釈と銘打っている。

 

念仏成仏

 あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

 

私に回施された南無阿弥陀仏の名号が、私の口から出るのだが、もはや自力の行ではないとおっしゃっている。

 

だから、どれだけ称えようと、一声だろうがもう関係なく、どれだけ称え心を整えようが、一生懸命に称えようが、つぶやくようなお念仏であろうとも、皆等しく成仏を期するべきなのです。念仏往生とここでは仰っていないところにも注意が必要です。

 

当然ながら、経釈に忠実な宗祖ならではの言い回しです。

 

念仏成仏はこれ真宗なり。(法照)

 

これはすごいことです。往生即成仏となぜ宗祖は領解されているのであろうか?

日本の仏教の歴史でいえば、凡夫が仏の悟りを開くことを教えているのは、二双四重の教判でももちろんあることはありますが、かなり難しいというか、やはり凡夫には不可能なことなんですよ。

 

まさに横超の直道とよべるものです。

 

人生は、お念仏に出遇うためのものだった!

と結論してもよろしいのではないでしょうか?

 

仰いで、いただくべき言葉であります。

南無阿弥陀仏

 

お念仏は、お呼び声なの?

南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得

 

 

お疲れ様です。今日は祝日です。勤労に感謝しましょうという日なので、私は休んでいるが、部下は、今日の朝あったクレーム処理に、出社している。私は休んでいるが、すぐにお客様に連絡して、こちらの不備をお詫びして、一件落着した。

 

世間事は何とかなるが、後生のことは、阿弥陀様にお任せするしかない。というか、すでにお任せせよという命令が、十劫も昔から出ていることも全く知らなかった。

 

善導大師の六字釈を承けて、親鸞聖人は、南無阿弥陀仏とはなにか?について、字解から説明されている。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。

 

 

お呼び声どころじゃない、勅命なんです。勅命と言ったら、絶対に逆らうことのできない、近代では天皇陛下からの命令を勅命とよんでいたんでしたね。しかも取り消すことができない命令です。

 

そんな過去から、出ている命令が、南無の中にあり、阿弥陀仏は、その内容、働きとなって私に届けられているというのです。

 

先日、私のブログを見てくださった方が、「阿弥陀様は、先にお浄土に行かれた方とともに、いつもにこにこと待ってくださっている感じかなぁ?」とコメントされたので、思わず、「いや阿弥陀様は待っておられません、今ここにきて一緒におられます」と言ってしまった。皆さん念仏者の方々ばかりでありながら、あの有名な二河の譬も、彼岸におられる絵を見ているとそういう受け取りになり、やがては彼岸にたどり着けるという理解になるでしょう?

 

日々お念仏していると、まさに心が歓喜に満ちて、知恩報徳の気持ちが起こり、それを様々な人に伝えたいという、常行大悲の心も起きてくるのです。あれ?これは親鸞様が、十種の利益についておっしゃったことと同じじゃないか?と思うようになりました。つまりは、やがて未来がお浄土になるのではない、今から活動してるんだという実感があります。日々聖教を拝読させていただくのも、菩薩の修行と思えば全くの苦でなく喜びになるのですね。

 

近所のお寺へのおあさじに参加するのも、喜びでしかなくなってしまった。睡眠欲に負けていけない時があるが、勘弁してください。

 

ここにきて、私を動かしているのは、まさに本願力ではないかと思うようになりました。仏勅を領受したときから、です。今週末にも、宮田先生をお招きして、福井で安心問答のライブ配信をさせていただきます。よろしくお願いいたします。

 

shinshuhouwa.info

 

南無阿弥陀仏

お念仏は、私の願いはかなえてくれるの?

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

お疲れ様です。

大変久しぶりにブログを更新します。何をしてたんだと思わないでください。

毎日憶念の心で、過ごしておりました。店長になりましたが、部下は誰一人私の言うことは無視して勝手に仕事しております。事務員に愚痴をこぼすと、店長は皆に信頼されていませんと、指摘される始末です。情けないです。

 

教行信証を味わいを含め、拝読しています。いわゆる「破闇満願」の御自釈であります。

 

これは究極に、仏の立場から仰られたお言葉なので、念仏称えても何も変わらないぞ!と突っ込まないでいただきたい。衆生の志願と書いてあるじゃないかと思われると思いますが、違うんですよ、実は、阿弥陀様は、なにしろ五劫も思惟されたので、私たちのことはすべてお見通しなんです。

 

ですから、私たちが満足するようにしてくださったお心が届いた念力が、私の称名になっているんです。

 

でも勘違いしないでいただきたいのが、ではお念仏称えたら助かるんですか?と思う人もいるんですが、とにかく阿弥陀仏のお救いは、無条件なんですね、これが不思議なことなんです。こちらから用意するものは要らんというお心が届くんですね。

 

よくお念仏の、六字の、南無阿弥陀仏のいわれをよく聴聞していただきたいんです。

 

面白いブログを、紹介いたします。

rcrc1535.livedoor.blog

在家の方ですが、非常によく南無阿弥陀仏の心を書いておられます。

フェイスブックに、貼り付けたらなぜか違反と書かれて削除…ここで公開させていただきますね。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏