回心と日々の気づきについて
合掌
お疲れ様です。
毎日お念仏を称えると、我が身に起こった不思議にいろいろ考えることがある。
安心論題も、いよいよ機法一体安心論題/機法一体 - WikiArcという問題に入ります。
南無阿弥陀仏のはたらきを、凡智で考えてもわかるはずもないので、この論題の背景を見ると、安心決定抄という聖教を拝して、さらに蓮如様の書かれた御文章を味わい、さらに善導大師様の六字釈まで解読する必要がある。
だがしかし、私が知らされたことといえば、どなた様でも、お念仏を称えましょうということです。
南無阿弥陀仏のはたらきを、願行具足と言われることもある。
つまりは、自分の力ではないぞ!全ては南無阿弥陀仏の作用であるぞ!
六字には、まさしく至高の宝が詰まっているということを機法一体なんだということでしょうか。
タイトルに書きましたが、お念仏を受けて、我が身の上で日々知らされる事を、教義的になぞっているだけなんだなぁと思います。
お経を読誦しても、お聖教を拝読しても、自分の信心を沙汰する作業となります。
ますます真宗への思いが強くなるこの頃です。
あなたは誰ですか?
合掌 お疲れ様です。
南無阿弥陀仏と称えていても、その対象は、本願に対するものです。
ですから、阿弥陀仏とはどんな方か、などと聞かれてもわからないのです。
たとえば、あなたが大学受験するとして、合否を誰が決めたのでしょう?気にしたことがあるだろうか?
南無阿弥陀仏のはたらきを受けて、どなたがそうしたんだろうかなどと、気にすることはないと思います。
真宗における帰命の対象(所帰しょき)は、阿弥陀仏という「人」であるのか、それとも名号という「法」であるのか、ということが問題になりました。その問題について論ずるのが、この「所帰人法しょきにんぽう」という論題であります。
それでもこう問題になっている以上考えなくてはいけないのです。
そこで、「所帰人法」というのは、帰命の対象は阿弥陀仏なのか、それとも名号なのかという問題であります。いいかえますと、阿弥陀仏を信ずるのか、それとも名号を信ずるのか、ということになります。
実際の所、名号と言っても阿弥陀仏と言っても同じだということなのです。
名体不二というらしい。
でも今日、いいこと言ってくれた人がいました。信心を得たいと思ってお念仏称えるところにしか、名号は届かないよー!って。
こういう気持ちが起こるのも阿弥陀さんのおかげなんですが、今わからない人も多いだろう。いや今もあなたに届いています。
たのむ!たすけさせてくれ!
合掌
お疲れ様です。 今回は、一番誤解を招くお言葉ですが、敢えて標題の内容を語らせていただきます。
まずは、古文の理解が必要です。 御文には、弥陀をたのめと何回もでてきます。もちろんのことですが、どうか助けてくださいという意味はありません。またこちらから何かお願いするという希願請求の意味もないのです。
真宗においては、本願におまかせしたことを、たのむというのですが、そもそもなぜ私がそのようになったのかというと、法蔵様が願われたからであります。
始まりのない昔から永遠に迷い苦しんでいた私一人のための本願でありました。
どんなご縁があってか、わかりませんが、すごい力がはたらいたのであります。
ですから、どんな方も遅かれ早かれその作用によってやがては信知させられるものと思っております。
毎日お念仏を称えていると、諸仏諸菩薩の方々が集まってきて、守られていきます。
悪縁が絶えずやって参りますが、その度ごとに退散していきます。ありがたいことです。
こちらの願いを聞いていただく事ではないのですが、不思議なことに守護されるのであります。
帰命という、奇妙な出来事について
合掌
お疲れ様です。 今回は、帰命義趣について 安心論題/帰命義趣 - WikiArc
浄土真宗にあって、阿弥陀仏に帰命するというのは、私の方から仏に向かってお助けを請い求めることではありません。阿弥陀仏の方からの救いのよびかけを受けて喜ばせていただくことであります。
親鸞様は、この帰命ということをどう味わっておられるのか?
私も同じくらいそう思っているので、大変頼もしく思っております。
しかれば南无の言は帰命なり。「帰」の言は至なり、また帰悦きえつなり……また帰税きさいなり。……「命」の言は業なり、招引なり……召すなり。ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり。
自分の思い、自力に囚われている間は、法蔵様の願いが聞けないのです。
よくよく聞かせていただきますと、お誓におまかせできますので、ぜひそのようにしてください。
たとえば、車がすでに目の前にあって、「さーお乗りなさい」といわれていれば、「はい有難う」と乗せていただくのが正しい受け止め方でありましょう。それに「どうか迎えに来てください。どうか乗せてくださるようお願いします」と、こちらから請求しょうぐするのは誤っているといわねばなりません。それと同様であります。
一念とは、瞬間ではない、今だった。
合掌
お疲れ様です。 暑い中、外回りして頭がボーッとなり、レッドブルを飲んでなんとか回復しました。
親鸞様が明らかにしてくださった信一念を、生活に追われながらいろいろ考えさせていただきました。
信心を獲ることが、人生の決勝点であるという夢を持ち、過ごして参りました。
思えば学生時代は、とにかく唯一無二と信じた先生の話を聞けばなんとかなると思っていた。
一念の瞬間について、心がどうなったらそんなことになるのか?などと考えていた。
親鸞様の信一念釈である。
これを抜き取って語ると大変な異義や異安心になると、私は申し上げます。
一念には、意味が二つあるとも解説されておられます。
一心と同じ意味、つまりは無疑、無二心という心相をあらわしておられます。
だからそもそもの本は、ご本願に対する私自身の問題です。
このように見てまいりますと、信一念の時はいつであったか、その時の様子はどうであったか、などということを穿鑿(せんさく)することは、宗祖の思召しにあわないということが知られましょう。要は信楽一心が正因であるから、名号のいわれをよくお聞かせいただき、如来の願力にお任せできた身になることが大切であるとお示しくださるのであります。
ご本願を聞信しようとされる方は、一念の瞬間などということにこだわることなく、慎重に、法蔵菩薩の願いを自分の身に押し当てて、聴聞していただきたいと思います。
なぜ信心が大事なのか?
合掌
お疲れ様です。 暑い日が続きますが、お気をつけてくださいませ。
真宗においては、信心をやかましくいいます。というのは、阿弥陀仏が、十劫もの昔に、我らがために救いを完成させたと、だから私たちは、すでに救われていることに気づいたことが、信心だという無帰命安心→安心論題/帰命義趣 - WikiArc があるからだ。
そのゆえに、信心の内容が、問題になってくる。
わからないと言ってはおられない、大事な問題なのです。
私の思う信心を、この中から引用させていただきます。
なぜ信心が正因になるのかという理由をうかがいますと、阿弥陀仏がすでに衆生の往生成仏すべき願と行、智慧と慈悲、自利利他の徳をまどかに成就せられ、これを名号としてわたくしどもに与えてくださっているから、これをいただく信心一つで、往生成仏の果を得べき因徳が、わたくしの上にそなわるのであります。つまり、本願成就の名号が往生成仏の業因であるから、これを信受するのみで仏となるべき身に定まるのであります。
明快です。私から、お念仏がでたら、それを耳で聞かせていただくと、お前を仏に生まれさせるぞ!と聞こえたのです。
疑うもなにもない、そのまま受け取りました。ありがたいことです。それから相続して、お念仏がでてくださるのです。
ところがそうか、そう聞こえたのが信心か?と理解して聞くのは人それぞれなので、そのまま受け取らないように、本願をよくよくお聴きください。
どんな疑いがなくなるのか?
合掌
私自身、宗教など無関心だったが、人として生きていると、様々な苦難がやってきた。
生きづらさから、自殺まで考えたこともある。
大学時代、友人が睡眠薬を飲んで予備校の寮で自殺した。優秀な奴だったが、身内だけで葬儀をあげたので、お焼香だけ上げに行った。
母親の呆然とした表情が思い出される。
私自身も一人暮らしで自由もあって生活は乱れた。徹夜はしょっちゅうだった。アルコールにも頼ったが眠れなかった。
そのまま授業に行く。そんな生活だった。
人間苦しいと、自殺、今は自死と言うそうだが、考えてしまう。
そんな時、友達から、はっきり仏教と言わずに、「いい話があるから、聞いてみないか?」と誘われた。
藁をもすがるような気持ちになっていた。もっと先だろうが、阿弥陀様に引っ張られていたのだろうなと感ずる。
その頃は、新興宗教に対する風当たりはさほどなかった。統一教会が、霊感商法をして、被害者がいたくらいです。
だから、いわゆる新会員勧誘に引っかかりました。
人生の荒波に耐えながら30余年過ぎてしまった。それこそあっという間でした。
ネットで様々な出会いがあり、浄土真宗の本当の教えに出会うことができた。
このブログを読んでいる方は、どんな人生を歩まれているのだろう?
今回は安心論題/信疑決判 - WikiArc について
某S会のT先生の話を聞いていけば、絶対の幸福になれると信じていた。
阿弥陀仏の本願とは何か? どんな人も必ず助ける 絶対の幸福に! と言うのが本願の内容だそうだ。
そのためには、聴聞、勤行、六度万行に励まねばならないという教えです。
まったく疑わなかった。
そのような私に事件が起きた。 実は南無阿弥陀仏のはたらきです。
S会の、中枢で活躍されていた方の訃報を知ったことです。
私はすごく尊敬していました。福井県の支部長をされていましたし、自宅まで行ったことも思い出しました。
その方の書かれたブログを読んで、衝撃でした。S会のT先生に対するものすごい批判です。
最初は、これは本当のことだろうかと訝ったほどです。
私自身は、S会をやめて、何してるんや!と怒りもありましたので、すべてにわたって信じたわけではありませんでしたが、その後、T先生の息子や、お話しを疑いながら聞いたのも確かです。
阿弥陀仏はすべての人々を救わねば仏にならないと誓われ、その誓願が成就して、現にわたくしどもに救いを呼びかけていてくださいます。けれども、これを私が信受しなければ、私は救われません。すでに救いの法は成就されているのですから、私が救われるか否かは、その救いの法を私が信受するか、信受しないかにかかっています。 これは阿弥陀仏が、信じた者は救うが、信じない者は救わないというように、信心を救いの条件とされているのではありません。阿弥陀仏はすべての人々に救いの手をさしのべていてくださるのです。しかし、その救いを拒絶する者、救いを受けいれない者は救われないということです。その救いを拒絶して受けいれない者も、阿弥陀仏の願力のおんはたらきでいつかは必ず信受させねばやまないと、常に動いてくださるのが阿弥陀仏の願力であります。 今は現に与えられている救いの法を信受するか否かによって、悟りの世界に入るか迷いの世界にとどまるかが別れる、というけじめを明らかにすることが、この「信疑決判しんぎけっぱん」という論題であります。
Twitterで、試験的に説法を試みている方を発見しました。
久保龍雲@Youtube始めました (@ryuun_kubo) | Twitter
話を聞いていくうちに、ほんとかな?と思うようになったのです。
S会以外に、本当の教えを教えていることはないと思っていたので、胸が騒ぎました。
その方から直接連絡がきて、フェイスブックで個人的なコミュニティを立ち上げるので来られませんか?と。
出口が見えない中なので、私は従いました。
いろいろな、ワークがありましたが、動画を上げていただきました。
議題は、仏願の生起本末についてでした。
親鸞様は、はっきりとお示しくださいました。
何の疑いなのか?ズバリ仏願の生起本末です。
私にも届きました。 間違いなく、あなたにも届きますので、ぜひよくよく本願をお聴きくださいませ。
読んでいただきありがとうございました。