いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

阿弥陀様に救われるとは?

合掌

お疲れ様です。 善導大師が明らかにされた他力の世界の心の相とはどんなものなのか? それを言い表した言葉が「二種深信」です。安心論題/二種深信 - WikiArc

かの哲学者の西田幾多郎氏が、絶対矛盾的自己同一と名付けしめた事柄です。

ですが、信前では、いろいろ想像して、こうならなければいけないと身構えていたが、南無阿弥陀仏をいただくとさほど難しいことではない。頭でどれほど考えてもわかるはずもない。

機の深信とは、機実すなわち私の本当のすがたを知らされることであり、法の深信とは、法実すなわち如来の願力の本当のすがたを知らされることであります。機実を知らされるということは、罪悪生死の凡夫で出離の縁あることなき私であると知らされることであり、出離の縁あることなき私であると知らされることは、私のカが出離のために役に立たないと知らされることであり、私の力が役に立たないと知らされることは、私のはからいを捨てるということであります。ですから、信機は捨機であるといわれます。法実を知らされるということは、如来の願力のひとりばたらきで救われると知らされることであり、願力のひとりばたらきで救われると知らされることは、すっかり願力にお任せするということであります。ですから、信法は託法たくほうであるといわれるのであります。

ほら、言葉は簡単明瞭です。

本願を何度も何度も繰り返し聞いて、南無阿弥陀仏と称える。

人間に生まれてきたのはこのためであったのか?と知らされるでありましょう。

南無阿弥陀仏

信の一念は、喜べるのか?

合掌

お疲れ様です。 他力の世界を言葉にするのは難しい。

歓喜初後

今日は安心論題の、歓喜初後について

安心論題/歓喜初後 - WikiArc

かなりのハードルがあるが、あくまで私の領解を、述べさせて頂きます。

というのは、信前でこの事を聞くと、それが目的でお聴聞することになるからだ。

一念の自覚はあるのか?ないのか?

これに関しては、覚知できるものではないと思っている。

某S会にいた頃は、南無阿弥陀仏に殺されるのだから、ハッキリするものだ!と思っていた。私の先生の久保龍雲氏にも、そこのところをよく質問しておりました。

譬えをもって示すと、真っ暗な闇に、目をつぶっていたとする。 夜は、日が上がり明るくなっているが、まだまだ目をつぶっているのが私の姿。

先生が、もう夜が明けていますよ?どうぞ目を開けなさいとおっしゃっている。素直に開ければいいのだが、ほんとに明けてますか?と問うのだ。

もう明けてからずいぶんと経っているのだが、曇天なのです。しかも家の中にいるのです。

すでに夜が明けていたが、雲が日を遮っていた。私は目を開けた。

目を開けた時が、信の一念だと思う。

『一念多念文意』には(真聖全二―六〇五)、 一念というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり。 と示されています。  宗祖が信一念のときをきびしくおおせられるのは、信心を獲得してから時をへて往生の因が決定するのではなく、信心獲得の初際に往生の因が決定する。つまり、受法(信心をいただくこと)と得益(往生が決定すること)とが同時である旨を示されるのであります。受法と得益とが同時であるということは、その間に私どもの力をまじえず、名号願力が私の心にとどいたときに往生が決定する、いいかえますと、信心ひとつが正因であるということを、徹底してあらわされるのであります。

そしてその後喜びはどうなのか?

これに関しては、喜びより驚きの方が大きいかもしれません。

先ほどの譬えで話したように、目を開けて、周囲を眺めているのです。不思議だ、不思議だ、先ほどまであった闇はどこに行ったのだ?どこにもないじゃないか?

初起一念のときの歓喜は、如来の勅命が聞こえたままの歓喜であり、如来の慈悲が私の心に届いたままの歓喜であり、無疑決定心が開発した当初の大安堵心であります。これは如来の勅命が私の心中に印現したまま(印をおしたようにそのまま現れる)の歓喜であって、私が意業に想いを運んで生じたものではありません。「ああ有難い」とか、「勿体ないことよ」とか思うのは、すでに第二念以後であります。

確かに安堵感かもしれません。 苦しみもがいて疲れ果て、お念仏も出なくなっていたはずですが、その苦しみが一瞬で抜かれていたのです。

躍り上がるほどの喜びではなくて、素直に聞けた安心満足なのです。

お忙しい中、私の戯言を読んでいただき、ありがとうございました。

南無阿弥陀仏

信心を得たらどうなるか?

合掌 お疲れ様です。

安心論題をテーマにして、私の領解を話しております。実際の教義とは、差異があることをお許しください。

信願交際

安心論題の三番目は、信願交際について、

「欲生」「願生」というのは、欲や願の字は将来うべき果に対する期待の心相であって、現に得ていることに対するものではありません。第十八願の欲生は信楽のところにある欲生ですから、まちがいなく得られる将来の浄土往生を期待する心相であります。これを往生浄土を待ちもうける心といってもよいでしょう。しかし、往生すべき身になっても死にたくはないのが凡情ですから、「待ちもうける」というよりも、「往生浄土があてになること」といった方が適切かと思います。 とあるように、未来に受けるべき結果があてになることです。

つまりは、本願に疑いがなくなるという、信楽の身になると、死ぬことに対して、あいかわらず怖いのですが、悪い所に行くかもしれないという不安がなくなります。

不思議な事になる。

闇に向かっていたのが、光に向かっているのです。

真宗の宗義は、他力の心相を明らかにしているので、言葉は理解できるが、その心はわからないでしょう。

本願をしっかりと聞いていけば、誰でもその世界に出れますが、間違って伝えているところもありますので、気をつけてください。

安心問答−浄土真宗の信心について−

飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~

上記のサイトがオススメです。

南無阿弥陀仏

信心とは?

合掌

お疲れ様です。
なぜ一心にしないといけないのか?

三心一心

labo.wikidharma.org

三心は、本願に説かれてある通り至心、信楽、欲生です。

これが一番やっかいな宗義です。

でもようやくわかってきました。

成就文には、至心廻向とありました。

そうか!真の心をいただくから、信心になる、往生間違いないという心がすわるのかと。

いろいろ難しい法語が安心論題にならんでいるけど、私の理解と味わいのみで話しています。

南無阿弥陀仏

聞くとはどういうことか?

合掌

お疲れ様です。

安心論題を、何度も読ませていただきました。ありがとうございます。

聞其名号 信心歓喜

わけがわからないことです。
一体何を聞くのか?という問題です。

名前を聞く?ましてや名前を聞いて信じろ?と。

無茶な話しです。

阿弥陀様を信じたいんです。信じて楽になりたいんです。

阿弥陀様が願われているんですが、当たり前のことですが、信じられないんですね。

ところが、そうやっていると何故だかわからないですが、私を信じさせようというはたらきに、包まれるんです。

他力です。

私がどんな状況だろうが関係ないのです。

林遊さんに怒られるかもしれませんが、聞いてこうなったということです。

南無阿弥陀仏

真仮廃立

合掌
お疲れ様です。
書くことがないと思いましたが間違っていました。

それにしても多くの念仏者がおられます。人口比率にしたら、稀なのですが、阿弥陀様の大慈悲は、届き続けます。

標題に書きました通り、薄紙一枚の話です。

お念仏を称えておりましても、二種、いや三種あるのですが、二つに絞って言います。

自分でとなえた念仏の方向です。

これはかなり注意して自分の心をみないといけないのですが、阿弥陀様に助けてくださいという心があるのかどうか?

もう一つは、ありゃもう救われていた?という自覚です。

もうお念仏しかでてきません。

かなりわかりやすく信後の自覚を話しています。

この自覚こそ他力です。

南無阿弥陀仏

黒人差別の果てに

合掌

お疲れ様です。久しぶりに投稿します。

御開山が、教行信証に、このようなお言葉を残されています。

某S会でも何回も聞かせていただきました。

でも今回はじめてわかりました。ありがとうございます。

愛欲の広海に沈没し 名利の大山に迷惑して

人間生まれた時から、快楽の虜です。自分が気持ちいいことしかしないのです。好きか嫌いかだけです。

つまりは、差別して生きるのです。
阿弥陀様はおっしゃいます。
とても無分別にはなれんだろうから、ならんでもいいものを用意したと!

つまりはお念仏です。

愛欲の広い海に、溺れている私を、なんとかすくわんと誓われたのでした。

南無阿弥陀仏