いいちこ@あまのっちの信心ブログ

浄土真宗の信心について、味わいを中心に書いていきます。

ウィルス

合掌
お疲れ様です。
全国どこもかしこも、マスク、消毒液を求めています。

結局、病になりたくない、死にたくない、一番の望みはいつまでも生きていたい、このこと一つではないだろうか?

南無阿弥陀仏を称えたらどうなるか?

願作仏心と度衆生心の二つであった。つまりは二種深信。

仏になる覚悟をしていかなければなりません。

念仏者の方は、そのようにしてください。この世に迎合しないでください。

南無阿弥陀仏

念仏者の生活とは?

合掌

当然ながら、お念仏を称えさせていただく。

私の口からでるお念仏を聞かせていただき、阿弥陀様の願いを静かに想う。

とはいえ凡夫である。
生活は、貪瞋痴を出来る限り抑えていくしかないのではないか?

いわゆる少欲知足を実践していきます。

欲をあまり起こさないようにすると結構うまくいく。

今こそお聖教を拝読し、法を喜ぶべきではないだろうか?

ただ法をねじ曲げ伝える者には批判しないといけないので、飛雲などを読んで、きちんと説明する必要がある。

言いたいことは、そういうことではなかった。

お念仏を称えるということは、自然の摂理によって、往生が定まるということがわかったということです。

そのようにしてくださったということがわかりました。

一体なぜそんな思いに落ち着いたのかわからないが、阿弥陀様のおはたらきの中に、私がいるのであります。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

信心えないと救われないのかなぁ?

合掌
いろいろと本を読んで、阿弥陀様は、信心えないと助けないのかという問題が起きてきた。

私は、お念仏に出会い、お念仏申すだけで、それでいいのではないかと思います。

蓮如様がおっしゃる通り、南無阿弥陀仏のいわれを知らざれば、いくらお念仏を称えても意味がないとおっしゃる。

はたしてそうだろうか?
わけもわからず、念仏称えていると知らず知らずのうちに疑いがなくなった。

信心と言えるのだろうか?
信心同異の諍論。
勢観坊、念仏坊だけではない、他力の信心が、誰でも同じになれるとは思わないではなかろうか?

これこそ本当の信心だと、これこそ正しい教えだと思いたいところだが、そう思ったが最後、南無阿弥陀仏に込められた願心はどこどこまでも深く掴みどころがない。

あら不思議、掴んでいたものがいつのまにかなくなっていたので、阿弥陀様に疑い抜かれていたと思っていた。これが他力なのか?

まだまだ聞法が必要だと思う、この頃である。

南無阿弥陀仏

お釈迦様が易往と説かれた

合掌
親鸞様が、ご和讃で
「大聖易往とときたまう
 浄土を、うたがう衆生をば
 無眼人となづけたり
 無耳人とのべたまう」
痛烈なお言葉だ。

お前ら、目があるんか?耳聴こえてるんか?と。

差別的にも感じるので、こんなことが大無量寿経に、書いてある事を僧侶もあまり言わないが、すごく大事なことが書かれてあるのです。

お釈迦様には、聞こえておられのですが、目も耳も塞いている私たちには聞こえないのでありました。

阿弥陀様は仰っておられます。
南無阿弥陀仏と称える者をすべて救うと。

次回からは、私がなぜここまで来たのか?お話ししたいと思っています。

南無阿弥陀仏
 

なぜ他力になるのか?

合掌
書く内容が、親鸞会をやめたら見つからないと思っていたが、どうしても言いたいことがあったので書かせていただきます。

せっかく仏教を聞かせていただいたのに、阿弥陀様の願いを拒否している人が多い。

死んだらどうなるか?わかっているのだろうか?
絶対の幸福などという妄想にしがみついているから、いつまでたっても聞けないのです。

お前を仏にするぞーと、阿弥陀様が誓っておられるのです。はい!となぜ聞けないのか?

お前はそんなに偉いのか?
まごころで、お念仏称えたことがあるのだろうな?
まったく見返りも思わず布施の真似事でもしてみたか?

まったく自分が殺されるのが信心です。万歳して、お手上げ状態です。
お念仏して、静かに本願聞かせていただきましょう。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

令和元年12月14日(土)福井東別院にて

合掌
近所の母の知り合いで、私が真宗の教えに興味があることを知っておられる方が、私がたまたまお休みだったので、どなたのご説法か知らずにお誘いに一緒にお参りさせていただきましょうということで2週間も前から決められていたお聴聞です。

ですから私が求めたものでもないし、第一どんな人が来られるかも知らない。浄土真宗法話案内にも掲載されていない行事なのでした。

母の知り合いの方には、熱心にお勧めいただきました。土井紀明先生のご著書 「仏に遇うまで」を手渡しながら、これから来られる方の本ですと紹介された。パラパラ見ると1945年生まれと書いてあったので、74歳か、私より20年も長く生きておられる方なのかと感じました。それに元々お寺の方ではなかったと書いてありました。

研修室のお仏壇の前にある机の一番前に座った。程なくして30人くらいの方が来られた。中には故嶋田久義先生の奥様、嶋田幸美さんも来られてました。

恒例の行事らしく20年も続いていると後から聞いて知った。

さてご法話の内容ですが、大無量寿経の五悪段の三つ目の邪婬についてのお話し。常例ご布教なので、前回の続きから。wikiarcから、現代語訳を引用します。


  「 第三の悪とは次のようである。世間の人々は、みな寄り集って同じ世界の中に住んでいるが、その生きている年月はそれほど長くはない。しかしその短い生涯の中にも、上は賢いものや力のあるもの、また身分の高いものや裕福なものなど、下は貧しいものや身分の低いもの、また力のないものや愚かなものなどに分かれる。そしてそのどちらの中にも、善くないものがいるのである。

 そのものはいつもよこしまな思いをいだき、みだらなことばかり考えて、悶々と思い悩み、愛欲の心が入り乱れて、何をしていても安まることがない。そしてあくまで執念深く、みだらな思いをとげようとばかりする。きれいな人を見ては流し目を使ってみだらな振舞いをし、自分の妻をうとましく思ってひそかに他の女性のところに出入りする。そのために家財を使いはたして、ついには法を犯すようになるのである。

 あるものは徒党を組んで互いに争い、相手をおどかし攻め殺してまで、欲しいものを強奪するという非道な行いに及ぶ。あるものは他人の財産に目をつけ、自分の仕事をおこたり、それを盗んで少しでも得られると、欲にかられて一層大きな悪事をはたらくようになり、ついには、びくびくしながらも他人をおどして財産を奪い取り、それによって妻子を養い、手当たり次第にみだらな楽しみをむさぼる。ときには親族に対してさえも、年の上下に関係なく礼儀を乱して、家族や親類などがそのために憂え苦しむのである。

 このような人々も法令で禁じていることを恐れないものであるが、こういう悪は人にも鬼神にも知られ、太陽や月の光も照らし出し、天地の神も記録している。このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第三の大悪、第三の痛、第三の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。

 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないようにと努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第三の大善というのである 」

二千年以上前のインドの話しだが、人間って全く変わらないことを感じさせる。

細かいところは説明しない。私が要点と感じたところを書きます。
お念仏いただいたらどんな生活を送っていけば良いか、親鸞様のお手紙に「世を厭うしるし」と書かれた。世間に背を向けるのではなく、世間の悪になじまないように、悪世により親しまないようにしようと言うこと、欲望のままではなく、浄土の光に反射させていくということ。
 月を仰ぐと顔も明るくなるように、阿弥陀様からの光を映し出していく生活になりなさいと言われてました。

そのあと様々な罪を犯して堕ちていく地獄のことや、在家の者と、修行僧では罪の重さが違うとか、愛欲、性欲強い者は、念仏を称えなさいと法然聖人が言われたことなどを説いて、休憩。

五欲の説明から始められた。五欲の中で強いのは財貪と婬貪で人間が他の動物と違うのは、性欲を貪るという点、知性を持ったためにどうすればより快感を得られるかという人間の姿に対して、仏智によって、凡智を変換させていきましょうと述べられた。

それから本日の話しの要に突入します。信心が起こる順序は
本願のいわれを聞く(教)→念仏申す(行)→信心が因→証(果)
仏の慈悲とは、光明(教)と名号(行)が合わさって信心になると。
ところがこの頃は教だけ、本願力のことを聞くだけでご信心いただけるのだということを言うものもいるらしいが、私は、お念仏でと思います。

教えから信心という根拠として観無量寿経の散善の中の下品中生の人で、善知識のご説法を聞き往生しているではないかと主張する。
しかしこれは修行僧に言われたことではないか?
次の下品下生の人とは、正信偈に書かれてある通り「極重悪人唯称仏」下下品の身が私、そのまま受け取ればよい。南無阿弥陀仏と耳で聞いたのを口から南無阿弥陀仏と称える。その逆、口で南無阿弥陀仏を称えたのを耳で聞く。どちらでもよいが、自分のはからい、思議は入らないのです。
大経では「聞其名号」聞名 これが信心。
観無量寿経では、称名で信心なのか、本願力を聞くだけで救われていくのか?
最後に源信和讃の紹介をされた。

極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとえに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまう

念仏申すしかないのです。

南無阿弥陀仏

異安心

合掌
異安心とはなんぞや?
wikiarcによれば、
いあんじん

 真宗における正当な教義とは異なった理解にもとづく信心のこと。異義・異解・異計などともいう。親鸞在世時から存在し、蓮如の時代にはくせ法門などと呼ばれた。その内容は多岐にわたり、親鸞の御消息、『歎異抄』、覚如の『改邪鈔』、蓮如の御文章などから知ることができる。江戸時代には本願寺派において三業惑乱が起こり、学林の能化が主張した三業帰命が異安心と判じられた。(浄土真宗辞典)

阿弥陀仏に、本願疑惑心が除かれたというけど、これが異安心だと言われてしまうと戸惑ってしまう。

そりゃ親鸞会会員には、わからんだろうな。高森師を阿弥陀様の代官だと信じていたら、私のいうことは、異安心にしか思えないだろう。

だから人ではないのですよ、相手は仏様なので、虚しからずなのですよ?

煩悩に遮られて本当にわからないままだけど、これがなんと言っていいかわからないのですよ。

不可称、不可説、不可思議。
別に異安心と罵ってもいいです。人の言葉は関係なくなるのです。

南無阿弥陀仏